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世の中が星野源を認めたら

こんばんは。

ちょっと考えてみました。

最近星野源くんを見かけることが多くなったので、ふと思いました。

「源くんがメディアに出てきたということは、彼の出身校の社会へ必要性が認められたのと同じではないだろうか?」

なんでこんなこと思ったかというと、彼の出身校・自由の森学園中学・高校はほかの一般の学校と異なる学校だからである。

簡潔にかくと、

・自分が没頭したいことが出来る学校

・テストがない、教科書ほとんど使わない、自己評価表形式の期末書類作成・課題提出

・表現の自由がある、服装が自由

・個性的な先生が多い、個性的な生徒が多い

のある学校。

違う場所でも一度書いたことがありますが、源くんと同じ学校だったので解るのですが、「自由には二種類あるが、この学校はリバティー(制約のある自由)な学校」で、自分の意思がないと流される所だ。

今の中学・高校は教科書とおりで、テスト採点・内申書主義で、現代の会社員と同じような先生という上司の顔色を伺いながらテスト成績を良くしないと、進路もままならないようなシステムと間逆な位置だ。

すべての国内の学校がそういうわけではないが、ほぼ同じだ。

この自由の森学園を除いて。

もし、日本国内がGDPあげたかったら

まず、教育現場から替えていかなければ、まず無理。

幸い、ゆとり教育の波は自由の森学園には影響が若干遅れて影響はでたが、星野源くんが在学中には受けていない。土曜は通学してましたから。

自由の森学園の教育方針をすべてまねる必要性はないが、無駄なテスト勉強をさせるより、思考力や創造性、決断力を開花成長させる流れ、指導要綱は必要だ。

年金破綻招いたのも、東芝不正経理も正直先のこと「考えていないで」政策・決定してしまったわけで、日本国民が「考える力」が多く・増すことが出来る人たちが増えれば大分世の中変わるのではないだろうか。

世の中の人が源くんを好きなるながれの裏には、ほかの教育とは違う異文化・考えがあったからだと私は思った。

そこまで深く考えなくて、彼のキャラクターだけしかみていないのはちょっと怖い、本当に。

もっと人々は、個人自体が個性を発生、発信していくべき(過激なものは駄目ですが)で、教育の場から行わないと浮いてしまう、社会人になってからでは。

アーティスト・著者・俳優、やりたいから全部やっちゃうなんて、自由の森の生徒じゃなきゃやらないので。


ただ、仕事すき過ぎて倒れないでほしいといつもテレビ見るたびに思う、トンボでした。

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