個人における最大幸福の求め方

 最短・最速・最高の臨む結果を求めようとすると、それを実現するための情報ばかりに目が向く。その情報に描かれる姿に対して、現状そうでない、現状そうあれない、という現実の認識は、「理想」や「あるべき」への隔たりから「現状は不幸である」という感覚を導きやすい。

 一方で、視点を変えると、そんなことに悩んでいられる現状自体がすでに幸せであると再定義できることが多い。よりよい幸せを求めて不幸になるくらいなら、目を向けない方が「今の幸せ」を思うと正しい在りようになる。「今も十分幸せ」という穏やかさだ。


 ただし、「今も幸せ」という視点に寄りすぎると、今度はよりよいものを求めることができなくなってしまう。

 現状を無条件に肯定し続けることは、現状にある「しんどさ」をそのまま残し続けてしまうこと。個人の範囲ならばともかく、他者が絡むと途端に害悪の度合いが上がってしまう。我慢や忍耐の美徳とは違って、目的が苦労ではなく穏やかさの共有であるために自分で気づきづらいけれど、現状にある辛苦を残してしまうという点でいうと同質であるためだ。「私は苦しかった時にこう考えて穏やかになれた。あなたも苦しいけれど、こういう風にリフレーミングすれば大丈夫」という示唆は、一時的な安息を生んでも解決にはなりえない。自分にとってはすでに苦しいと認識されない出来事であるからこそ残っていることもあまり気にならないにせよ、「自分も苦しんだんだからあなたも苦しめ」理論と、残されている現実自体は変わらない。


 さじ加減を考えるに、自分がマイナスに落ち込んで、意欲が乏しいときは、手早く立て直しを図るために、今あるものに気づくスピードを上げる訓練と思って「今の幸せ」探しをするのがいい。それは他者に目を向けることであり、周りを見渡してほかの不幸や苦しみを見て、自分の足元を確認して、まずは自分の立て直しをしてから、「さあ、では実際にどうしよう」と向き直る。

 このサイクルを素早く健全に回せる人こそが、ストレスを最小化しバランスよく、利己と利他を行き来して幸せを最大化できる人なのかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?