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#013 思い出のアニメ【Gt.フーキ】

 私はですね、TVが無い生活を二桁年単位で過ごし、映画も見ないタイプなのです。「思い出のアニメ・漫画を語れ」って今回のテーマは難しいかな、なんて思いもしましたが案外出てくる。
 出て来てしまうと逆に話したい事も増えてしまって、的を絞るのが存外難しい。自分自身の記憶にこれだけの漫画やアニメが残っていると知って、サブカルチャーの偉大さを思い知ります。

 そんな偉大なサブカルチャー、漫画を含めると膨大になってしまうからアニメに絞って考えました。消去法で、まずはフリクリですね。
 もうね、なんか好きとしか言い表せない、正にサブカル。情報量があり過ぎて理解が追い付かないけれども、興味が尽きないので自分で買って、未だに持っているDVDです。
 お次のカウボーイビバップは音楽屋さんに好きな人が多い印象です。先述のフリクリもBGMがピロウズなので知ってる人もいるのでしょうが、こちらの方が知名度は上かと。フリクリと違い、明確な世界観が腑に落ちる感じで、単純に好みです。
 思い出した順に説明して来ましたが、最後に来るのがイヴの時間。当時PCで見ていた記憶がしっかり残っています。銃夢とかSF漫画ともリンクしながら熱く語っていました。
 正に思い出です。今回のコラムはこれに焦点を当てて行こうかと。


 未来、たぶん日本。“ロボット”が実用化されて久しく、“人間型ロボット”(アンドロイド)が実用化されて間もない時代。
 案外近未来な設定の説明から物語が始まります。公開当時は08年だそうで、web公開から始まり最終的には各話15分の6話を纏めた劇場版として公開されました。
 公開当時は3DCGのメリットを使い尽くしたようなカメラワークが話題となり、映像美としても一定の評価を得ていた気がします。

 ストーリーは思春期真っ最中の高校生の視点から。
 自宅のアンドロイドが命令していない場所に立ち寄っていて、行動記録を辿りアンドロイドと人間が区別なく触れ合う喫茶店に辿り着き、友人と店の人間を巻き込み話が広がる群像劇。
 ただ、物語の中心が不思議な喫茶店なので、群像の中にアンドロイドと人間が含まれているのが序盤の見所かと。

 ざっくり一話の触りとして。主人公と友人が喫茶店に辿り着き、アンドロイドと人間の区別がつかない空間だと知って狼狽え、常連に相談を始める。自宅のアンドロイドの話をして、店主に怒られ、常連とそこのアンドロイドの価値観や関係性を聞き出す。
 不思議な喫茶店の常連は、アンドロイドとも人間とも制約無く会話出来る場所だから通っている。アンドロイドも人間も家族だと思っているからこそ、誰がどう感じるのか知りたい。他者を理解したいって根源的な欲求からなのだと、主人公達は理解する。
 しかし、その常連さんも実はアンドロイドで、主人公に語られた価値観は人間からアンドロイドではなく、アンドロイドが人間に対して思う所だった。
 自分に命令を下すマスターを理解したい、そんなアンドロイドの欲求の発露。AIの自己研鑽プログラムだと切り捨てても構わないのだけれども、人が人を理解したがるように、アンドロイドも考え行動する時代が来るのかも?


 そんなお話で、好きな所を語って行こうかと。
 まずロボット工学三原則と言われる原則がありまして。
「第一条」
 ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。
「第二条」
 ロボットは人間にあたえられた命令に服従しなければならない。ただし、あたえられた命令が、第一条に反する場合は、この限りでない。
「第三条」
 ロボットは、前掲第一条および第二条に反するおそれのないかぎり、自己をまもらなければならない。

 現在のロボットもそれを基軸に考えられています。SF小説家の考えた原則ですが1条、2条、3条と優先順位が敷かれ、行動の原理原則を担っている。
 方々で指摘されている事ですが、言い換えれば三原則に反しない限りは何をしても良い。1条を守る為ならば2条や3条は反故にしても構わない。
 アニメの中では主人公に対してアンドロイドが隠し事をします。それが嘘であろうと、三原則には反していない。また別のシーンでは1条を優先するために2条を破棄する瞬間があったりと、そもそもの定義に疑義を呈している。
 アニメの割にはしっかりと取り組んでいるなと。ロジカルな側面が好印象だったと記憶していますね。

 好きな点とはまた違うのですが、記憶に残っているのは理由がありまして。私は喋る機械が基本的に嫌いなのです。お店のセコムが「セット時刻になりました」と、12時45分に毎度警告をする。機械に命令されるのは気に食わない訳です。
 これが黒人と白人だったら大問題ですが、人間と機械だから差別が許される。人間と人間に近い思考回路を持ったアンドロイドでもギリギリ許されるでしょう。ただ、見た目も言動でも区別がつかなくなったら?そんな問いかけをしてくるアニメです。


 義手や義足、人工心肺もそうですし、日々の生活だけでなく人体にも機械が入り込んできている。
 良し悪しで語るのではなくて、どこまでだったら人間として認められるのか。外見の話でしょうか?それともお酒が美味しく呑める消化器官?
 私は基本的に人間の証明の1つとして欲望があると思っています。物事をより良くしたり、新しい事を始めたり、何かの壁にぶつかった時など、人生を切り開くその切っ先は欲望であるべきだと。

 その欲望はどこに宿るのでしょう。下世話な話で下心とも言いますが、一般論としては脳でしょう。理性や感情や記憶を溜め込んでおく場所です。
 だとしたら脳死の場合は人間ではなくなってしまうのか。脳がなかったら、機能しなくなったら、人間などはただの血の詰まった肉袋でしょうか?
 逆説的にもしも脳機能の全てを大容量のSSDに換装出来るのならば、それは人間と定義できるのでしょうか?連続した記憶と感情と欲望があれば人間なのでしょうか?

 喋る機械は嫌いだけれども、意思を持つアンドロイドは人間と変わらない可能性があるのかなと。そんな事を考えさせてくれるイヴの時間が「思い出のアニメ・漫画を語れ」でした。

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