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昔はいろいろあったけど……さようなら、金六さん!さようなら、IWAジャパン!

金六さんが亡くなった。最近のファンにとっては「金六さんて誰?」ということになるのだろうが、IWAジャパンの少なくとも初期に関わった者にとっては、改名後の浅野起州ではなく浅野金六というオリジナルネームこそにしっくりきてしまうはず。いや「金六さん」だ、金六さん。オレたちにはそれこそが最もしっくりくる。そんな金六さんとTAJIRIの歴史は、期待にたがわず新宿二丁目で幕を開けた。いまからちょうど30年前のことである。

1994年6月。オレは、後楽園ホールでおこなわれたIWAジャパン第一回入門テストに合格した。合格直後にIWAのTシャツを手渡され「それ着てきょうからセコンドついて」と、同時に受かった守永安広(のちに西日本プロレスや世界のプロレスで活躍した水前寺狂四郎)と田上泰助(現在もTAISUKEの名前でフリー活動中)とともに、プロレス人生がスタートした。

オレは、入社して間もなかった電話金融会社をすぐさま退職した。長年の夢だったプロレス界。朝から夕方までは新宿二丁目にあるIWAオフィスで働き、夜は錦糸町の遠藤ジムで稽古する日々が始まり。当時の社長は庄司さんという若い方で、金六さんは毎日オフィスへふらりとやってきてはああだこうだと話をして帰っていく、オレにとってはヘンなおじさん。あの人はいったい何の人なんだろう?その正体をまだ知らなかった。

オレの入団から1か月が過ぎたか過ぎていないかというある日。社長である庄司さんが蒸発してしまう大事件が勃発する。そのとき初めて知ったのだが、IWAは庄司さんが立ち上げた団体ではなく、様々な事情から社長に就任するわけにはいかない「ある人」が真の社長なのだと、オフィスの人から聞かされた。そのある人こそが、金六さんだったのだ。え、あのヘンなおじさんが本当の社長さん!?そんな感じ。行方の分からない庄司さんの代わりに、オレのプロレス人生最大の恩師であるビクター・キニョネスが急遽社長に就任。金六さんは週刊ファイトで「陰のオーナー」と報じられる機会が増えていき、ついには数年後、自ら表舞台へ立つこととなるのだが。

ビクターが社長とはいっても、そこはガイジン。庄司さんに代わって実務の最終決断をくだすのは金六さん、ということになる。金六さんが真っ先に着手したのはコストカットだった。興行経費に始まり、それこそオフィスの事務用品に無駄な買い物はないかまでチェックしていたようだった。そして、オレは聞かれた。練習生のアンタに、庄ちゃん(庄司さん)はいくら払ってんの?と。

オフィスの雑用係として、オレは13万円の給料をいただいていた。しかし雑用とはいってもチケットの作成(当時は席番を一枚一枚スタンプで押す手作業だった)、街宣テープの作成、ガイジンの送迎、電話対応、週プロへ出向いてパンフやポスター用写真の選定、ポスター貼りの手伝い、各所へのポスター送付、さらには電話をかけまくっての会場探しまで、興行にかかわるほとんどのことを任されていたので、忙しさはハンパなかった。だが……

「13万なんて、庄ちゃんバッカじゃないの!アンタには7万あげるから、それでいいわね!?」

と、ほんの一瞬でほぼ半分に減額されてしまったのであった。蒸発した庄司さんは結局、それからほどなくして見つかった。しかしメンタル的に復職はできそうにないということで、IWAジャパンはビクター新体制のまま突っ走っていく。

9月。オレのデビュー戦。明らかに時期尚早だったのだが、8月に金村さんが突然離脱したことにより、急遽デビューすることになったのだ。シリーズ開幕戦は後楽園ホール。

「アンタどうせショッぱいに決まってんだから、後楽園になんか出せないでしょ!」

そんな理由により、オレはシリーズ2戦目の蒲郡でデビューすることが決まった。開幕前、金六さんはしきりに

「アンタ、ちゃんとパンツ作ってもってくんのよ!」

と、試合用タイツのことをパンツパンツと連呼していた。デビューしたことにより、オレにはオフィスでの給料7万円に加え、1試合7千円のギャラが加算されることになった。それでもIWAのシリーズは多いときでせいぜい月に6試合。大した額にはならなかったのだが、それでも当時の(きっと今も)インディー事情を考慮すると、これはそれほど悪い額ではなかったはず。オレ自身もまだプロレスに関われる嬉しさだけで生きていけた時代だったので、お金の話で金六さんと揉めたことは一度もない。そして、給料が7万円で試合ギャラが7千円。どちらも7。おそらく金六さんは無意識に、7のつくギャラを決めたのではあるまいか。その理由は、ゲンを担いだり神仏への参拝には効力があると信じていたからのような気が、オレにはする。本人に確認したことはないが、そういうことを結構気にして生きていたような気配が、金六さんにはどこかあった。起州へと改名したのも、もしかするとそのあたりに理由があったのでは。

金六さんはいつも「レスラーと一緒にいると、こっちが疲れちゃうよ!」と決まりモンクを言いながらも、地方も含めすべての試合に同行していた。日本人選手のボスは金六さん。ガイジン選手のボスはビクター。そんな空気が自然と形作られていく。それが原因となり、のちに二人の間に大きな亀裂が生じることとなるのだが。オレが入団してから1年ほどの間は金六さんとビクターの関係性も、IWAの団体としての成長度合も順風満帆。ついには川崎球場進出までこぎつける大躍進を果たすのだった。

しかしその前に。オレがデビューした約半年後。初代エースだった荒谷さん(信孝)が離脱してしまう。金六さんは「一身上の都合により」と離脱の理由を一切公表しなかったので、それを知りたいマスコミからの電話が連日オフィスに鳴りやまず。

「東スポがいちばんしつこいのよ!」

根負けした金六さんは、東京スポーツの電話取材にとうとう応じた。関係者ですら詳しく聞かされていなかった退団理由。オフィスでは誰もが金六さんの会話に耳を研ぎ澄ませ。受話器の向こうから、記者の声が聞こえてくる。

「浅野さん、荒谷の離脱の本当の理由を教えてくださいよ!」

「う~ん……アンタ、そんなことまだ知りたいのお?」

金六さんは、一度こころが離れてしまったことに対しての見切りが異様に速かったのか。離脱からすでに数日が経過していたこのとき、そんなことはもうどうでもいいでしょ的に、けだるい口調で語り始めたのだが。ついに離脱の真相に触れたとき、オレは我が耳を疑ってしまった。

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