絶望と、決意の『交響曲第三番』

中学高校の吹奏楽部生活で一番印象に残っているのは、高校2年のコンクールだ。
結果が良かったとか、いい演奏ができたとかより、とにかく練習かキツかった記憶が色濃く残っている。

私が高校2年生の時、同級生は30人以上いた。
1つ上の先輩は20人もいなかった。各パートに3年生は1-2人だ。
私のトランペットパートは2年生5人、3年生1人の6人で、8人分の楽譜を手分けして演奏した。

当時の顧問は、この年のコンクールに懸けているように感じた。
私が高1のときが、顧問が赴任したタイミングで入学した生徒が3年生になり、そこで支部大会で金賞を取った。長年、支部銀賞だった歴史を塗り替えた。
前顧問の息のかかった部員は全員卒業し、自分の教え子1期生で金賞。この流れに乗りたかったのかもしれない。

顧問には自身が現役時代に思い入れの曲があった。
「ダフニスとクロエ」。
支部代表で全国大会出場が決まったが、ちょうど著作権の規則が改定された年で、代表に選ばれてから違反していることに気付いたという。
顧問はフランスへ飛んで説明や理解を得ようとしたとか周りも色々手を尽くそうとしていたらしいが、最終的には「出場辞退」を選んだ。全員が署名をしたと聞いた。


顧問は「いつかダフニスを演奏したい」と言っていた。生徒の間では「自由曲がダフニス=いつもと違う」という認識が生まれていた。
そして、自由曲の候補のなかに“ダフニス”の文字があった。
「いよいよか・・・」と、部の雰囲気も緊張感を纏っていた。

自由曲に選ばれたのは、ダフニスではなくバーンズの「交響曲第三番」だった。
違う曲になったが、コンクールへの想いは相当だった。
自由参加の朝練がレッスンになり、休日の練習時間も伸びた。
試験発表中は基本的に部活禁止、練習する場合は1時間のみだが、同調圧力のようなものがあり、メンバーは全員1時間練習に参加した。

とにかく朝から晩まで吹き続けた。
県大会で最優秀を狙っていた顧問と先輩は、代表に選ばれたものの代表4団体のうち3位通過という結果に落胆していた。
それから夏休みはさらに練習時間が伸びた。
夏休み前より学校にいる時間は増え、さらに登校時間は早く下校時間は遅くなった。
体は休まらず、課題をする時間はない。
ストレスは溜まるが、好きな吹奏楽から離れようとは思えず、必死についていった。

支部大会。
演奏順は2番。
夜中に起きて練習して移動、そして本番を迎える。
大会数日前から、ホルンとffで奏でるコラールの音程が合わず、合奏で何度も捕まった。本番ではそこがガチッとハマってすごく気持ちよかったことを今でも覚えている。
悪い演奏ではなかった。「もしかしたら」と思った。

結果は、金賞。全国大会へは進めなかった。
支部大会で同じ県から出場した他の3校は、銀賞だった。
私たちは県勢で唯一の金賞で、金賞では最下位(6位)だった。

頑張ったし、誇らしい結果だ。
だけどーー。
同時に絶望した。
あんなに練習した。死ぬ気で全力でがむしゃらに走り抜けた。
それでも届かなかった、全国大会への切符。
どうすれば、そこへ行けるのだろうかーー。

支部大会が終わって、先輩が引退した。
その流れで、同級生が何名か部を去った。
進学校だったので、3年の夏休み終わりまで1日中部活をする現実に見切りをつけたのかもしれない。

私も悩んだ。
本当に頑張った夏だったから。
これ以上、何ができるのか。
できることはもうないのではないか。

でも。
音楽が、トランペットが、何より吹奏楽が好きだった。
その気持ちは変わらないから、部に残った。

3年生は、支部大会3位だった。
2位までが全国大会へ進める。2位との点差は3点だった。
2年の夏より、できることをやった。
やり切ったから後悔はなかった。
すぐに受験に切り替えることができた。

今でも「交響曲第三番」は好きな曲だ。
当時の光景が蘇る。
苦しかった練習、ダメ金だった絶望。
そして「もっとやらなければ」と新たに決意した。


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