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拝啓 私によく似たあなたへ

ねぇお母さん、私もたまに無神経な言葉で人を傷つけてしまうんです。きっとあなた譲りだね。でもその後すごく後悔するの。お風呂で1日を振り返るとき、自分の一言であの人が今頃落ち込んでいたらどうしよう、泣いていたらどうしよう、そう思ってたまに謝りの連絡を入れたりします。馬鹿みたいでしょう。ねぇお母さん、あなたは後悔していますか?それとももう忘れてしまった?それとも、自分は間違ってなかったって意地を張るかな?私以上に意地っ張りだもんね。

母から投げつけられた言葉の中でいちばんひどかったのは多分「あんたなんか産まなきゃよかった」だと思う。親からのひどい言葉としては王道すぎてちょっと笑えてしまう。

いつのことだったか。たぶん中学校に上がり、生意気さが目立ってきた頃だろう。どうしてそう言われたのか、そう言われてなにを思ったのか、どう反応したのか、なにも覚えていない。ただその言葉だけが身体の奥の方に、鉛のようにいつまでも残っている。

23年前の夏、中国の江蘇省南京で生まれ、スイカジュースが大好きだった赤ん坊こと、私。
母は私を産む数ヶ月前まで日本で大学に通いながらバイトで学費を稼ぎ、出産して1ヶ月でまた日本に戻っていったそうだ。
「お父さんとお母さんは日本という国にいるんだよ。笑ちゃんのために頑張ってるからね。」生まれてから面倒を見てくれた祖母はよく私にそう言い聞かせた。

出産に立ち会わなかった父と初めて会ったのは2歳半で母に連れられ来日したとき。細いけどがっしりした、母とも祖母とも違う腕に抱かれ「これがおとうさん」と幼い頭でなんとなく受け入れた。成田空港駅のホームで桃のジュースを買ってくれたのをうっすら覚えている。私にとっての初めてのおとうさんは桃の味だった。


小学校に上がったばかりの頃、ちょっとした嫌がらせにあった。「名前が変だね」から始まり、「今日もばかだね、中国人ってきもいね」と消しかすを投げられたり廊下で背中を押されたりした。しょうもないな、と気にしない素振りで過ごしていたけど、雨が降ったある朝プツンと糸が切れた。バス停で「わたし、学校に行きたくない」と泣き出した私を見て、母は驚いていた。

事情を説明すると、「今日放課後ママが行くから、学校に行きなさい。」とバスに押し込まれた。

その日の放課後、母は当事者と担任を校門に呼び出すと、娘と同い年のこどもを正面から見据えて言った。
「みんなと名前が違うことのなにがおかしいのかな?次この子に嫌なことをしたら、私が同じことをあなたにするから覚悟しなさいね。」
一瞬のことだった気がする。その日を境にぴたりと嫌がらせはなくなった。

母のやり方は今思うと少し大人げない。小学生相手にガン飛ばして、あの子は怖かっただろうなあ。

だけど私は、あの時学校に行けと言ってくれた母に感謝している。

生きていると理不尽なことやしんどいことによく出会う。辛くてだめになってしまうくらいなら、向き合わず逃げていいこともたくさんあると思う。

でも、あの時戦い方を教えてくれたことに感謝している。他人と違うことを恥ずかしいと思わなくていい。堂々としなさい。理不尽には背を向けず、思い切り殴れと教えてくれた。たぶんあの日があったから、今の私はここにいる。


自分がいかに優秀だったか、という話を母はよくする。3人兄弟のまんなかに生まれた母は上に姉、下に弟がいる。勉強は区域でもトップレベルにできたけど、長女と弟を大学に行かせるため自分は高校を出てすぐ就職した。
大手のガス会社でもめきめき実力を発揮して、20代半ばには管理職に手が届きそうだった。でもお父さんについていくために全部捨てて日本に来たんだと。いちからバイトで学費を払い、ゼロから語学を学んだ。ほんとうに大変だった、と母は話すけど、写真に映る当時の母はすごく綺麗だった。

以前読んだ本にこんな一節があった。

お母さんは自分の人生を、私のお母さんになったことを後悔しているのだろうか。長いスカートの裾をグッと押さえつけている、小さいけれどずっしりと重い石ころ。キム・ジヨン氏は自分がそんなものになったような気がしてなぜか悲しかった。母はそんな気持ちに気づいて、娘の乱れた髪の毛を優しく指ですいてくれた。

チョ・ナムジュ『82年生まれ、キム・ジヨン』

「こんなはずじゃなかった。幸せになれると思ったのよ。」と母は言う。
私はいつも、すごいね、大変だったんだね、以外なにも言えなかった。
こんなはず、には私も含まれるんだろう。
私が母から奪ったものはなんだろう。
若さ、美しさ、時間、キャリア、夢、娯楽、逃げ道。

ほんとうはもっと勉強したかった、ほんとうは教師になりたかったらしい。「だからあなたは好きなだけ勉強しなさい、大学院も行ったら?それで学校の先生になるといいわ。ママそれまでは支援してあげるから。」とよく言われた。

母は自分の昔話が私をどんな気持ちにしているか、気付いているだろうか。
ねぇ、産まなきゃよかったって言われたことを私はずっと恨んでるんだよ。でも自分がこの人から奪ったものを考えると、そう思われても仕方ないのかもしれない。だって、私に人生を分けてくれたんだよね。お母さんになる前はただひとりの女性で、人間で、こんなつもりじゃなかったよね。

学生時代喧嘩するとよく言われた。
「あんたが食べてるものも飲んでるものも寝てるベッドも着てる制服も使ってるスマホも今までの学費も、誰が用意したと思ってんの。そんなに偉いなら全部返しなさい。」
そんなの反則だ。ごもっともすぎる。そんなこと言ったらこの身体だってあなたの中から出てきた。あなたが作った。でも、それなら私が所有できる私はどこにあるんだろう。

早く自分の主導権を握りたくて高校2年生の春に始めたアルバイトも、受験期が近づいて1年足らずでやめてしまった。


社会人になって金銭的に安定し、家にもお金を入れられるようになると、親子喧嘩はほとんどなくなった。ずっと仕事人間だった母は、50代になってよく出かけるようになった。週末には仲間とゴルフに行ったり山登りに行ったりしている。

成田山の占いで「仕事はこの先もうまくいきます。旦那さんは気難しい人ですがあなたがいないとだめになります。離婚はしない方がいいです。」と言われてから何かが吹っ切れて自分の人生を楽しむと決めたようだ。

週に数回、知り合いの小学生を家に招いて宿題を手伝うようになった。「いつか、日本語が苦手なこどもをサポートするような小さな学習教室をやってみたい」と話す母は前よりずっといきいきしている。

コンビニで値段を見ずに買い物をできるとき、私は自分が少し大人になった気がして嬉しい。それで気付いた。お母さんはずっと大人になれなかったのかもしれない。私は最近まで母が自分のために贅沢するところを見たことがなかった。ガス会社で勤めていた頃も給料は全額家に入れていたらしい。3人兄弟のまんなかで我慢してた優等生は、そのまま歳を取ってたんだな。私に言ったひどい言葉たちはもしかしたら、お母さんがお母さんに言えなかったわがままの分だったのかな。


ねぇお母さん、私教師にもならなかったし、大学院にも進学しなかったし、ばかほど稼ぐ職にも就かなかった。でも今ちゃんと自分の道を歩いてる気がして、結構楽しい。コンビニで好きなものを買う自由をくれてありがとう。私がちゃんと大人になれる環境をくれてありがとう。
いつかちゃんと、あなたが投げた言葉を許せるように、もらった分を少しでも返せるように、私はわたしの人生を満たしていくから。
それまで健康に気を付けて待っていて。

いつか自分の子供ができたとき、私はあなたとは違う愛し方を試してみたいな。不器用なあなたが伝えられなかった言葉をたくさん伝えたい。少なくとも娘のガラケーを真っ二つに折らないようには気を付けるよ。この先折り畳みスタイルが再流行しないことを祈るばかり。

そして、これ以上ないくらい幸せだなって思えるようになったら、その時になったら、「私のこと産んでよかった?」って訊いてみるから。
その時はちゃんと答えてね。


今日は花屋でカーネーションを買って、ちょっといいコーヒー豆を挽いてもらった。帰るのが遅くなって母はもう寝てしまった。物欲のない母にプレゼントを選ぶのはいつも難しい。ハンドクリームが部屋の飾りになったり、ヘタなものをあげるともっといいやつ持ってるよと言われたりする。

お母さん、一人暮らしに反対なの、私のためを思って言ってくれてるんだよね。いい物件が見つかるまではもうちょっと甘えるね。恋人と別れたの、ほんとは気付いてるけど触れないでくれてるでしょ。いつもは無神経なことばっか言うくせに。朝たまに作ってくれる独創的な料理、あれボリューム多いけどおいしいよ。自分は常にダイエット中なのに気付けばお菓子を補充してくれてるよね。甘いやつとしょっぱいやつ。私が好きだから冷凍庫はいつもチョコレート味のアイス。

ねぇお母さん、いつもありがとね。

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