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読書をするだけではだめですか?

”ある年齢を過ぎたら、

読書は精神を
クリエイティブな
探求から遠ざける

本をたくさん読みすぎて、
自分自身の脳を
使っていない人は、
怠惰な思考習慣に陥る”

びっくりしたな

アインシュタインがこんなことを

私も読書はある
数読んだら価値を
自分に加えてくれるものと
ならないと思う


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知識にどうやって立ち向かうのか


インプットとアウトプットという
話があるんだけど

実はインプットする量の話をしていることが多い

だからインプットの深さについては考えない

つまり読書をたくさんすればいいという
話をしてしまうとそれは量に主眼が置かれてしまう
ある種それはマネになる

マネが悪いわけではないけど
そもそも思索したり新たに何か
考えるのはマネしていても仕方ない

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アインシュタインがいうのは
受動的に知識に立ち向かう読書だけでなくて
積極的に知識に立ち向かう思索をしなさいと
そういうことになる

読書はある程度すれば
考えることなんてそんなに作者によって
変わらないもの

前にも書いたけど哲学の概念の数行のものを
読書では何百ページにわたって解説はしている

なので単に量読むだけでは何も先に進まない


考えることっていうのは有名な作者でも結論がでていないそういうもの


考えて何がそこにかかれているのか
もしくは中心的に必要な概念とは何か

それを考えないといけない

それをやらない限り単なる読書は繰り返しの
ルーチン作業とさほどかわらなくなるんだろう

私も相当数読書したしそれに大学院で哲学系の科目の
論文も書いたことがあるけど

論文書く時は本は読まない
けれど論文書きあげたときに自分の中に
内実される何かはあった

それは読書が主体でなくて
概念を抽出することが主体だったから
それで少しながら何かしらみえてきたわけ

そういう体験をするためにも
読むときはただ学ぶというより
私の中に何が考えられるのか

その本なしでも残る何かをみつけるのが重要だろう

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付記

情報とは表面的なもの知識にすらならない場合も
知識というはそれをつくりだすのが価値観

価値観は実は根本は善悪観もしくは何か大切かという順列を
教えるものただ結局は何が一番なのかつまり善なのかってことを
教えるのが中心となる

で実はその価値観は人の認識の形態で変わってくるもの

認識をいかにしているのかどれで価値観がかわる

例えば認識の違いで世界の見方もかなりかわるでしょう
昔の人と今の人ではまるで世界のこうだって味方が違うのは
認識の違うのせい


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