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ある統計で日本人は宗教心を大事というが信仰は持っていないというがなぜか

ある調査結果では、日本人は宗教心を持つことはいいことだと思っている。けれど実際、日本で宗教をする人はかなり少ないように思える。世界には宗教をしない人は唯物論とか無神論とかいうことになるが、実際日本人はそうでもない。だったら民族宗教の神道なのかというと、実際のところ確かに元旦に神社にお参りにはいくが、国民の多くが神道を宗教としているわけでもない。

この不思議な状況は何なのだろうか?

日本人が宗教心を持つことについては自然に求めていればその延長でいわゆる宗教団体に属するのが普通の論理的な流れだろうが、唯物論でもないのに宗教団体に属するのは何か邪教にそまるとネガティブなイメージをもっている。その行き先をどこにしていいのかわからずに、彷徨している理由がきっと何かあるのだろう。その理由を歴史的に考えていくとあることが浮かびあがってきて、日本人の精神世界の認識をどうやら歪めてしまっているようである。そこことについて考えてみた。

宗教心が重要だと思うのは7割近くもあるのになぜか宗教団体に属している人が少ない?!


南山宗教文化研究所研究所員の奥山倫明氏の分析によると(南山宗教文化研究所 研究所報 第 25 号 2015 年),宗教的な心を大切だと思いますかというのに7割の人が大切と答えているという。しかし同じ調査では、何か信仰を持っているという質問には、持っていないというのが逆に7割もいる。この矛盾に満ちた結果は、どういうことなのだろうか。


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国民の多くは宗教的なものには惹かれているが、しかし信仰は持っていない、さらにそういう状況なのにもかかわらず日本人には以下の不可思議な現象もあるのだ。


宗教人口が人口より多いという現象が常だった日本の宗教環境


そもそも日本はもともと、変な統計結果があったのはご存じだろうか。それは日本の宗教人口がなぜか、人口より多いという統計結果だ。そもそもよくよく考えてみると、私たちは何か宗教教団に属していると思っている場合が少ないのになぜ総数は人口より多いのだろう。

昭和63年の総人口は1億2274万人だったが、宗教人口は下の表の通り1億9185万人位である。1.58倍もの差があったのだが、令和元年になると、1億2616万7千人の人口に対して1億3286万人程度が宗教人口となり、宗教人口は人口の1.05倍に減少した。ほぼ人口と同じ程度になったという結果が見てとれる。

                             (引用元)

もともと1.5倍近くもあった割りに普段の生活で宗教的活動のようなものが、まるで感じられないことに不思議に思うことだろうと思うが、この理由にはいろいろあるだろうが、一つには形式的に登録していた、もしくはされていたというのがあるのだろう。

※記事の中には、今回の現象はダブル登録がある宗教団体と宗教団体の間で解消されたことが大きな減少原因とされている。(詳しくはhttps://president.jp/articles/-/38441?page=1を参照)

現時点でもまだそのダブル登録やらトリプルなどは多いと思うので、実際の宗教人口はもっと少ないとは想定できる。しかしながらこの不可思議な現象の原因は何なのだろうか?


邪教を排するためにキリスト教以外の宗教に属することを国民の義務としての認識を作った寺請制度


儀礼的に宗教に属するということを強く印象付けてしまった歴史的な慣習は、江戸時代の寺請制度といっていいだろう。それは以下のようなものである。

江戸幕府が宗教統制の一環として設けた制度。寺請証文を受けることを民衆に義務付け、キリシタンではないことを寺院に証明させる制度である。必然的に民衆は寺請をしてもらう寺院の檀家となった ー中略ー その目的において、邪宗門とされたキリスト教や不受不施派の発見や締め出しを狙った制度であったが、宗門人別改帳など住民調査の一端も担った。 wikiより

このことゆえに、宗教していないのにその宗教組織に属しているという構図が当たり前のようになった。このことは、宗教人口が多く見積もられる大きな中心的原因になっている。

いわゆる宗教組織に属することを自由意志でというより、国民の資格として義務としてとらえることをこの寺請制度はしたことになるといってもいい。ここで住民調査として意味合いと絡めたために、日本人の深層意識には宗教をすることの意味は国民として国に登録していることという意識を持つだけとなり、信仰はしていないのに宗教団体に登録するという安易な気持ちも生み出した。

これは原則宗教団体に属することは、信仰を持った結果ということであるのだから、信仰というものの価値がこの制度の上だと何か薄っぺらいもの、もしくは精神的な探求の道や人生の模索とは関係ないどうでもいいものという意識を持たせた。

そして実は宗教団体に属するということを積極的にすることについて、この制度の上だと違和感があって、その違和感を埋めるためにそもそも寺請制度をする理由となったキリスト教(新しい宗教)を排除するという目的だったため、そのお上の意思を汲み取ることをするなら、キリスト教のような何かお上が認めていないか新参者の宗教団体に属するということは、おかしなこともしくは邪教にそまることとして、極端なケースでは非国民扱いを成立させる認識の元を作ったようにも取れる。

このことを想定すると日本人が宗教をすることが何か邪教にそまるというイメージをもつこと、そして自分たちは宗教的なものを求めているのに、その行き先をどこにしていいのかわからずに彷徨している理由もわかるような気がする。

これらのイメージは過去の遺物であり、終戦後に民主主義時代になって国民となるのに檀家の登録も必要ない、そして宗教は精神の探索として求めて自由にどんな宗教にも信仰の自由で進んでいっていいということを再認識しないといけない。そういう時代になってきているのではないかと感じるのである。

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