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「悪は存在しない」と「人間ではないもの」 24/7/6

自分が想定する数少ない読者のために一応言っておくと、この記事はとてもネタバレを含みます。
普段はこんなこと書かないのだけど、ネットに落ちている考察が自分の解釈を含まないものが多かったので、読みたい人に読まれたらという希望も含んで書く。あと、自分は自分の解釈にわりと自信がある。濱口竜介監督とともに、自身も世の中への見方を成長させてきた自負があるから。

悪は存在しない、を見てきた。上映のピークを過ぎていたから、港区(名古屋)のイオンモールまで車を走らせて行った。東京と違って名古屋の港区は割と郊外だ。

行き帰りの道中は、妻と友達の中国人留学生の女の子と3人でおしゃべりをしながら行ったから全く暇しなかった。博士課程の彼氏がかなり鬱っぽいらしく、最近まで似たような状況だった人間として、少しは役に立つことを言えただろうか。彼はきっと、自分自身の無意識と時間をかけて向き合う必要がある。

前評判では、ラストシーンが唐突かつ理解し難いという話を聞いていて、多くの人がその説明を求めているように思える。

確かに自分も終わった瞬間は、え、終わり?となったが、フードコートでサラダを食べながら、妙に納得した気分になった。まあ、確かにそうなるかもな、と。

そもそも、ラストシーンが現実に起こったかどうか、それすらも定かではないのだ。一連の出来事は、視点的な中心人物である「巧」の想像の中、もっと言えば無意識の領域で起こったことかもしれない、と思い当たった。

キーワードは、「ノンヒューマン」「無意識」

まず、ノンヒューマン(人間でない存在)から。
その映画の撮られ方から感じたのは、人間でないものからの視点を散りばめていることだ。序盤のわさび菜を覗き込むシーンが顕著だが、あのショットは、人間をわさび菜から見たものだ。それによって、以降の様々なショットが、木から見た視点、鹿から見た視点、というように意識された。

なお、見る上では、すべての事物の取り扱いを平等にする必要がある。瞬間瞬間に起こっている事象を、あらゆるアクターの相互作用の結果として捉えることが大事だ。
人間 vs 自然という二項対立を超えて、モノを含むすべてのアクター(e.g. 地方の人間、都会の人間、用水路、補助金制度、鹿、わさび菜 etc.)が、平等に次の瞬間の結果に対して影響力を持っているという前提に立つことだ。この話は、「補助金制度」という事象がなければ成立しないし、説明会の討論内容も、もし「マイク」が準備されていなかったら、声を張り上げるのに疲れて少し手薄になったかもしれない。

これは弁証法的な二項対立の乗り越え方法だ。
例えば、刑事ドラマの最後で、「犯人が悪いんではない、そうさせた社会が悪いのだ」と言う刑事の決めゼリフがある。しかし、「そうさせた社会も人間が作っているんだけど?」というツッコミを入れると、結局は個人が悪いのか、社会が悪いのか、という責任の無限往復が起こってしまう。
そうではなくて、複雑なものをそのままスナップショットとして取り扱ってみる。そうすると、「悪」という概念が、極めて相対的な仮定に過ぎないことが分かる。

今までも濱口竜介監督は、相互作用の結果、近いことをしてきたように思う。登場人物を同じテーブルにつかせ、会話のテクストが日常における決め事やルールから遊離し、思いもよらぬ結果が引き起こされる過程(サスペンス)を真剣に描いてきた。
今回の作品では、その出席者を人間以外にも拡張している。

さて、その上で、ラストシーンについて書こう。

そもそも、あの場所はどこだろう?
自分は巧の無意識(=異世界)の表出だと見て思った。だって明らかに現実離れしているから。霧がかかってるし。時間軸もおかしいし。

では、なぜ無意識では、高橋を締め上げ、花が鹿に襲われるのを防げなかったのか。それは、巧が役割期待から逃れたいと無意識に思っているからだろう。

巧は、役割を持っている。
グランピング開発計画における地域住民にとっての調整役、そして、父親だ。
巧は、意識の上ではその役割をこなそうとしている。
地域経済の存続にとってグランピング場の観光資源が必要なことも、自分がいなければ花を育てられないことも頭では理解している。

けれど、本当は?

巧は、理性と本能では、極めて本能の方に近い。言葉数も少ない。ノンヒューマンを射程に入れた認識世界を持っている。
建設計画が進む中で、土地の人間は言葉を持っているから、浄化槽はなんとか交渉できるかもしれない。けれど、鹿の通り道が破壊される、という問題は劣後されるだろう。解決策はない。詰んでいる。

だから、本当は高橋を殺したいのだ。
手負いの鹿だったら、高橋を襲っているだろうから。
自然を「人間的・都会的なものの反対概念」として都合よく利用しようとする高橋の態度に、心底ではイラついているのだ。

父親としての役割も同様だ。
冒頭の巧と花との会話は、アカマツやマツの識別方法といった「ノンヒューマンを解釈する方法」の伝授だ。
巧は花に、自然を解釈する術は教えられるが、人間と社会生活を送る術をあまり教えることができていない。それは、母の不在による部分も大きい。
その結果、花がほかの子供と馴染んだり、遊んでいるところも描かれない。

巧は、花を人間社会のルールの中で育てるべきことを、完全に受け入れられていない。なぜなら、巧自身が、人間社会に馴染めているとは言い難いからだ。
花の迎えを頻繁に忘れるのは、無意識に、人間社会のルールを教える「父」としての役割を避けているから、かもしれない。

以上を踏まえ、ラストシーンで起こった出来事を順に想像する。
・巧と高橋が花を発見する。
・高橋が、手負いの鹿に近づこうとする花を止めようとする。
・巧は、花が鹿に襲われるのを、ただそのままにするべきだと判断する。なぜなら、それが「自然」の結果だから。その経験によって、花は巧が言葉で伝えるよりも多くを学ぶと信じているから。そして、鹿に襲われても死ぬことはないと予測されたから。
・よって、巧は高橋を止める。全力で。ただ、高橋が持つ象徴的な意味(=鹿の通り道の破壊者)が作用したのか、強く締めすぎる。とはいえ、そもそも大の大人が大の大人の動きを止めるには、どちらかが気を失うしかない。
・「常識的な人間は、人を締め上げたりしない」という常識を持っている高橋は混乱しつつ、失神する。
・巧は花の呼吸を確認する。(生きている、たぶん)。
・高橋が起き上がり、そして倒れる。(のちに生きて発見される、たぶん)

要は、ラストシーンで起きたことは、ただの出力結果に過ぎない。
手負いの鹿と邂逅する花、そして、遠目から見る巧と高橋というインプットを用意し、巧に対して理性的に期待される役割、という条件だけを取り除いて、「Run」ボタンを押した出力結果なのだ。
濱口竜介監督としては、ラストシーンまでは(あるいはそのもっと前かもしれない)脚本を用意したが、それ以降の出来事はノータッチだと言いたいのかなと思った。

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では、我々の世界で、現実に起こる出来事を見てみるとどうか。
今起こっているアウトプットのインプットは、それが起こる以前にインプットとしてあり、そのアウトプットのインプットもそれが起こる以前に、というように、無限に遡ることができる。

入力→Run→出力

その世界で、「悪」という烙印は、極めて便宜的に作られたものにしか見えない。
今回の映画内では、結局は誰も死ななかったんだから、それでいいじゃないか、と。


▪️参考文献


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