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バタフライマン 第15話 野生児

 夜のメタモル・シティの通りで、酔っぱらった男がフラフラとした足取りで帰路についていた。彼は呑気に鼻歌を歌いながらマンホールの蓋の上を通りすぎた。すろと、足が動かなくなった。
「ん?」
男は腑抜けた声でそう言いながら足元を見た。そして恐ろしいものを目にする。先程のマンホールの蓋が開き、その隙間から毛むくじゃらの細い腕が出て、男の足首を掴んでいたのだ。
「な、何だこりゃ!」
男は抵抗も空しくそのままその手にずるずると引きずられて行き、マンホールの下へと消えていくのだった。
下水道の狭く暗い空間の中で奇怪な怪物が何かをむさぼり食らっていた。灰色の毛に覆われたそれが食っていたのは人間の右腕だった。しばらく食ってから怪物は
「不味い!」
と叫び、汚水が溜まったスペースにその腕を投げ捨てた。よく見るとその水たまりには人間の手足や首、乳房などが浮かんでいた。
「この街の人間は味が悪すぎんだよったく!」
怪物はそう吐き捨てた。彼はカイジン一族のラット。レイブンの配下の一人だが、最近は彼の前に姿を見せてはいない。彼は下水道に住み着き、通りがかる人を襲って巣に引きずりこんで食らって生活していた。彼にはある願望があった。装身していない「繭」の戦士がマンホールの上を通った時にすかさず捕らえようと思っていた。そうすれば自分は日陰者から脱却できると考えていたのだ。レイブンに会っていないのは面倒くさいからと言うのもあるが、この目的を達成してから彼に顔を見せ、報告して報酬を手に入れたいというのもあった。彼は今日もその時が来るのを暗く狭い下水道の中で待っていた。
 
 カラスマ家の地下にある「繭」の本部ではカラスマ・ミドリとその父カラスマ・キイチが話していた。
「近頃、街の下水処理場にバラバラ死体が流れてくる事件が相次いでいる。行方不明者も多い。これは下水道に潜むカイジンの仕業に違いない。」
「私に行けと‥」
「いや、狭い下水道での戦いは大きな翼を持つお前には適さない。新たなる戦士が必要となる。」
キイチはそう言うと、黒い蟻の形をしたものを取り出した。
「これが暗所、閉所での戦闘に適した強化服だ。これを託したい男がいる。名をクロヤマ・ガクという。山育ちの野生児で今はクロカミ山地に住んでいるという。行ってその強化服を渡してこい。」
ミドリはクロカミ山地に向かった。生い茂る針葉樹の中にミドリは木製の小屋を見つけた。
軒先には熊や猪などの獣の皮が干されている。扉を叩くと
「何か用か?」
と声が聞こえた。出てきたのは毛皮でできた服を着こみ、ぎざついた歯をしたやや攻撃的な印象を与える男だった。
「クロヤマ・ガクさんですか?」
「いかにも俺がクロヤマだ。それで何の用でこんなところまでわざわざ来た?」
「実は、重要な話がありまして‥」
ミドリはメタモル・シティの殺人事件について話した。
「俺は都会で起きた事件なんざ知らんぞ。そっちの警察に任せておけ。」
ガクはそう言うと、家に戻ろうとする。
「まぁ待ってください。人間の犯罪者の仕業ならわざわざここには来ません。」
「すると何だ?化け物でもいるというのか?」
「まさにその通りです。話を聞いてください。」
ミドリはカイジン一族のことをガクに話した。ガクは犠牲者の原形をとどめないバラバラ死体の写真にも目を通し、こう言った。
「長年ここで暮らしていると勘が鋭くなってな。嘘をつく人間は目で分かるものだ。しかし、お前の目は誠実そのもの‥」
「お前が嘘つきではないことは分かる。だが、にわかには信じがたい話だ…」
ガクはそう呟くと
「取り敢えずそこに行ってみることにする。この目でその世界中にいるっていう化け物を一匹でも確かめたいからな。」
ガクはそう言った。ミドリが車までついていくように言うと、一人で山を下りた方が早いのでいいと言われた。ガクは足早に山を下りて行った。その動きは野兎か猿のようで並の人間とはかけ離れていた。ミドリが一時間強かけて山から下りると、そこにはもうガクの姿があった。この男は強化服なしでも驚異の身体能力を発揮できるらしい。
「おい、そのアリンコのおもちゃ渡しな。」
「これはそんなに軽々しく渡せるものではありませんよ。」
ミドリは少し口調を強めて行った。
「硬いこと言うなって、少し触らせろよ。」
「ダメだ!」
ミドリは語気を荒らげてしまった。彼はすぐに冷静さを取り戻し、装身して戦うことがいかに重いことかを説いた。その話を聞くとガクは、
「分かったよ。悪かった。」
と少々投げやりに言った。よくも悪くも動物的で直情的なところが目立つ男である。
 
ガクは本部にてキイチと相まみえた。
「おっさんがその繭とやらの大将かい?」
「まぁそんなところだ。よろしく頼む。君に頼みたいことは‥」
「分かってるよ。下水道の中にに入ってバケモノを倒すんだろ。そのアリンコで変身してさ。」
「その通りだ。だが、君にはその覚悟があるか?戦士となるということは私利私欲の全てを捨てて全人類の生命を背負うことだ。それが君に出来るか?」
「出来るさ。山暮らしも退屈になってきたし、刺激が欲しいと思っていた所だ。おまけに世のためになるとくれば、断る道理はない。」
ガクは何の迷いもなく快諾した。キイチは強化服を渡し、ガクを現場へと向かわせた。
 ガクは都会の喧騒を生まれて初めて経験した。彼は幼いころから山間部の集落で、成人してからは山奥に小屋を建てて自給自足の生活を送っていたので文明社会というものにほとんど触れてこなかったのだ。ガクはその騒がしさと空気の悪さにしばらく慣れないでいた。やがて郊外の河原にある下水道の入り口にたどり着く。ぽっかりと開いた巨大な穴にガクは何の臆面もなく入っていく。山で長い間暮らしていたため、暗い場所には慣れきっていた。下水道の中を進んでいくと汚水の悪臭の中にかすかな死臭が漂っていることに気付いた。山に放置された動物の腐乱死体と同じ臭いがする。奥に進むにつれてその臭いは強くなっていき、やがて何かを齧っているような不気味な音が聞こえてきた。その音の方に向かって進んでいると、段差になった場所に座っている何かの影が見えた。ガクはそれに近付いていく。そこにいたのは毛むくじゃらの人型の怪物だった。怪物はガクの方を向いた。
「何だ貴様は?」
その顔は鼠の物だった。ガクは半人半獣の怪物を目の前にした一瞬、身じろいだ。そして怪物の周りに散らばっているものを見た。それは食い散らかされた人間の肉片や骨であった。臓物や千切れた四肢らしいものも見える。
「そうか‥お前がカイジンとかいうバケモノだな。」
「なぜ分かった!まさか貴様は‥」
「やっぱりそうか。これでお前を倒すよう頼まれててな。」
ガクは蟻型の強化服を取り出した。
「そうか!やっと来たか!まさかそっちから来てくれるとはなぁ!」
鼠の怪物は歓喜を含んだ口調でそう言った。
「ずっと待ってたんだよ!『繭』の戦士を食らうのを!これでようやくレイブンの野郎に顔向けが出来る!」
「何のことだか分からんが俺がお前ごときに黙って食われるわけないだろ。人食いのバケモノさんよ。」
ガクはそう言うとあの強化服を取り出した。
「お試しと行くか‥」
ガクは強化服を渡されたときは一見軽薄で遊び半分であるかのようなそぶりを見せたが、実際には人々を全てを捨ててでも邪悪から守ろうという強固な覚悟を持っていた。それは紛れもない義の心であり、強化服はすぐに反応した。ガクはまばゆい光を放ち始めた強化服をかざした。
「Formica japonica」
何やら音声が流れる。
「装身!」
ガクがそう言うと強化服が分解されてガクの体に纏いつく。ガクは見る見るうちに黒光する鎧に包まれた蟻の戦士となった。黒い複眼に頭頂部の三つの単眼。そして口にあたる部分には銀色に輝く鋼の大顎(クラッシャー)があった。
「そう来なくちゃなぁ‥」
鼠の怪物は舌なめずりをする。
「行くぞバケモノ!」
ガクは両腕を前に出して敵目掛けて飛びかかった。蟻の戦士と鼠の怪物の凄まじい取っ組み合いが始まった。両者は汚水が流れる中をもんどりうって格闘した。ガクが馬乗りになって怪物―ラットを殴る。ラットはガクの拳に噛みつき反撃する。ガクはその牙を振り払って再び敵の顔面を殴りつける。ラットは殴られてもなお素早く身を起こし、飛び跳ねて後ろに下がる。ガクも体勢を整えると、ラットの方に向き直った。両者は息遣い荒くにらみ合っている。そしてお互いの方に向かって猛進していく。ガクの拳とラットの鋭い鉤爪の応戦が始まる。ガクは振り下ろされる鉤爪を避けて猿のように身軽に跳ね、時折ラットに拳を打ち込む。ラットも怯むことなく噛みつこうとしたり、爪を振り下ろしたりして猛攻を加える。格闘は数十分に渡り続いていたが、両者にはまるで永遠のように感じられた。
両者ともに疲弊していた。それでも戦いを止めようとはしない。ガクにはこれ以上の犠牲者を出してはいけないという強い願いが、ラットには戦士をこの手で倒し、レイブンにその肉と首とを献上し、褒美や特権を得たいという願望があったからだ。その強い思いにより、両者は決して引きさがることのできない戦いに身を投じたのである。ラットは天井や壁でも身軽に素早く走り回ることが出来た。それを駆使してガクを追い詰めようとしたのだ。だが次の瞬間、ガクはラットのそれと全く同じ動きを見せた。人生のほとんどを山で過ごしていた彼は野生的、動物的な動きを日常的に行っていた。それは鳥獣魚虫の姿と能力を得た存在であるカイジン一族とほぼ同等の動きが出来るということだ。ガクは天井から飛び降りてその胴体を一発殴った。
「ぐわっ!」
ラットは一瞬うめき声を上げたが、すぐに立ち上がり、ガクを睨んだ。頭部からは血が流れていた。ラットはかつてない恐怖に襲われていた。ラットの武器は身体能力のみ。毒や飛び道具の類は一切持ち合わせていない。つまり、自分より高い戦闘能力を持つ敵と相対した場合、勝ち目はほとんどない。
「どうした。もう終わりか?」
「まだ終わっちゃいねぇ!」
ラットは再び猛然と襲いかかる。ガクもそれに合わせて駆けだす。そして強化服に着いた鋼鉄の大顎(クラッシャー)を展開した。彼は強化服の使い方を事前にキイチから聞いてはいたが、それを短時間で全て記憶し、使いこなすことが出来るようになっていた。ガクは大顎を開いたまま飛び上がり、ラット目掛けて襲い掛かった。そしてその顎でラットの肩と首の肉に食らいつき、力を込めてその部分の肉を齧り取った。
「チュィィィィィッ!」
ラットは金切り声を上げる。ガクは肉片をペッと吐き出すと、再びラットの方に向き直り、そのままその頭頂部を殴りつけた。と同時にラットの頭で何かが砕ける音がした。
「畜生ぉぉぉぉ!」
ラットはそう叫びながら炎を上げ、灰となって消えた。ガクはそれを見据えた後、口笛を吹きながらその場を後にした。こうしてまた優秀な戦士が一人「繭」に加入したのである。

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