文明の発展~世界と日本の違いに思いを馳せる~
こんばんは。
今回もシリーズものから離れまして、文化文明の中で、普段から思うことをちょっとだけ。
そもそも私が歴史好きになったきっかけは、アウストラロピテクスなどが出現した先史時代の遺物に興味を持ったことでした(その果てに仏像や仏教美術にたどり着いたのです)。
前回「大長編ドラえもん のび太の日本誕生」をご紹介して、久々に「旧石器時代」や「縄文時代」に思いを巡らせました。
そこで、昔感じていた日本と世界の文明発展過程の差を、これまた久々に思い出したのです。
※トップの画像は「Airchariot」さんによる写真ACからの写真です
1、先史時代~初期原人の誕生と「道具」「言葉」の発明を思う
2、最古の「文明」誕生~その時、日本は?
3、文明に差が開く~土器と彫像
4、文明格差のない時代へ
1、先史時代~初期原人の誕生と「道具」「言葉」の発明を思う
人類の祖先といわれる初期の生き物が地球上に現れた時期について、現代の研究ではおよそ1000万年~700万年前。そして700万年~500万年ごろに、二足歩行を獲得した「猿人」が出現。移動範囲も格段に広くなったと考えられています。
そこから約100万年後に「アウストラロピテクス・アファレンシス」などの多様な猿人が登場し、勢力を拡大していくことになります。
このころで最も大きな出来事は、「道具」や「言葉」の発明です。
「道具」の発明で狩猟が楽になり、口にできる「食料」の種類が各段に増えました。
それはつまり「行動パターンが増える」ことにつながり、互いが何をしたいのか伝える手段としての「言葉」(らしきもの)が生まれます。
そして「火」の発見。
これで食料をおいしく食べ、また保存する術を獲得した猿人たちは、いよいよ大陸を離れた冒険に乗り出します。
アフリカ、ヨーロッパを拠点としていた彼らは、長い長い旅と途中の異種族との闘いを潜り抜けながら、世界中に広がっていきました。
そんな彼らが日本に上陸したのは約3万8000年前。アジア大陸から凍った海で陸続きになっていた部分を渡ってきたというのが今でも通説ですね。
元は一つの種である私たち。ですが、その土地で根付いた歴史の長短の差はここまで出るものかと驚くほど、文明の差に大きな開きが生じていきます。
2、最古の「文明」誕生~その時、日本は?
最古の文明というと、現在の世界の歴史研究では紀元前3000年ごろに中国で興った「竜山(龍山)文化」となっているようです。ほぼ同時期にメソポタミアにウルク王国などの文明王国(竜山文化よりも数百年前に王国を形成していたという説もあります)が誕生。そしてエジプトの「古王国」時代が始まります。
ごく簡単に触れますと、竜山文化とは、黄河中流から下流にかけて広がった新石器時代後期の文化です。新石器時代後期にあたりますが、その別名に「黒陶文化」とありますように、「黒陶」という非常に精緻な陶器が発明されていました。どのくらい精巧といいますと、器の薄さ約0.5~1mmほどのものを均一に作り上げるほどです。おそらく、ろくろがすでに発明されていたものと考えられています。
そして竜山文化とほぼ時を同じくして興っていたメソポタミアの文明王国では、「原エラム文字」や「エラム線文字」などが発明され、文字と小さな彫像付きの碑なども盛んに作られていました。
さらにはエジプト「古王国」(紀元前約2700年~2200年前後)には、エジプトのみならず、古代地球を代表する巨大建造物「ピラミッド」、また太陽神殿等の「大神殿」の建設が始まり、行政機構、国家制度の整備も始まっていました。
そんな時期の日本といえば。なんとまだまだ縄文時代!
集団生活・定住が進み青森県の三内丸山遺跡のような大規模集落が形成され、クリなどの植林農法が始まっていた時代です。
とはいえ、三内丸山遺跡の遺構から想像される当時の集落の規模は結構なもので、広大な土地に太い柱を持った建築物が群れ建っている様子は圧巻です。特に、大型の竪穴式住居は見事。
こと「土器」ということでいうならば、火の勢い模した躍動感あふれる装飾が美しい「火焔土器」など、日本の土器も負けてはいません。他に類を見ない、日本人特有の表現として、これを編み出した人に会ってみたい✨
しかし、方や巨石をてこの原理で動かし、巨大建築物を天文学や算術によって作り上げる。方やまだ木造建築。もちろんどちらが良い悪いということではなく…ただ、スタートの差はこれほどあるかと。同じ人類ではあるわけですが…。
歴史を並べてみるとここまで差があるのだな!と単純に吃驚( ゚Д゚)したわけです。
3、文明に差が開く~土器と彫像
だいぶ前置き?が長いですが、私がどんなきっかけでこの違いを考えるようになったのかといいますと。
大学生のころに、夏休みをすべてバイトに捧げて資金を貯め、初めて出掛けたヨーロッパ旅行。そこで訪ねた「ルーブル美術館」でのことです。
第二外国語でフランス語を学んでいた私はフランスに、イギリス文学を研究課題にしていた友人はイギリスに行きたかったということと、初めての海外ということで、パック旅行を選択した私たち。
見どころはたくさんありましたが、特に私が楽しみにしていたのが、「ルーブル美術館」の見学でした。
事前にガイドさんから「全部見るには1週間でも足りないくらいだからね。見たいものは一つか二つに絞って回った方がいいわよ」と教えを受けていました。
私が絶対に見たかったのは「サモトラケのニケ」像。友人は「モナ・リザ」。
ちょうど二つ。その道中に見られるものはラッキーだと思おう。
そう決めて、我々二人は「ルーブル美術館」に挑みました。
当時から大人気だった「モナ・リザ」をとにかく先に観てしまおうと、走らんばかりに急ぎ、長蛇の列に並び、押し合いへし合いの見物客の中に潜む「スリ」に気を配りながら、「モナ・リザ」を見学。
当時はまだまだ美術に関心が薄かったので、思ったより「小さいな」と感じたことだけを覚えています。人の量に対して作品が小さく、どんな様子だったのかもあまり思い出せないくらいだったのです(…残念!)。それを目的にしていた友人は、あまりにあっけなく終わった見学にちょっと放心気味でしたね💧
いえいえ、呆けている時間はありません。
もう一つの目的「サモトラケのニケ」へ!
「モナ・リザ」からの所要時間を正確には覚えていないのですが、多分30分くらいかかったのではと記憶しています。
とにかく広く、とにかく遠い。もはや目的を達した友人は、生来ののんびりモードに入ってしまって足取りが重くなっています。「先に行って観てきていいよ~」なんて言っていますが、方向音痴の彼女を放っていくことはできません。
やっとたどり着いた「サモトラケのニケ」。
勝利の女神ニケ(またはニーケーとも)が、船の舳先に降り立った様子を表現したこの彫像は、躍動感ある姿態と、精緻で美しい「ひだ」の表現が見事なギリシャ彫刻の傑作と言われています。像高は244cmで大理石製。1863年に、エーゲ海に浮かぶサモトラケ島(現在のサモトラキ島)で発見されたため、この名が付いています。
制作年は前200–前190年ごろと言われいますが、作者や制作目的を含めてはっきりしたことは何もわかっていません。
小さいころギリシア神話や文化にも興味を持っていた私は、その衣の「ひだ」の美しさにすっかり心を奪われて、なんとしても本物を見てみたい!と願っていたのです。
しかし、その時、制作された当時を思いながら、ふと考えました。「そういえば、日本って、このころどんなことが起こっていたんだっけ?」。
当時はスマホなんてない時代(年齢がばれそう。(笑))ですから、もちろん旅行中は検索なんてできません。旅先から帰って調べてみると、「弥生時代前期」ごろ。大陸から人の往来も始まり、「鉄」が入ってきたころだというのです。
うーん。一方は現代芸術にも比肩する彫刻表現が生まれ、もう一方は鉄器を使った戦いや生活が営まれ始める…。
もちろん、ヨーロッパよりは遅いのですが、その後日本も中国など大陸の文化を取り入れながら、奈良~平安時代以降、独自のめざましい発展を遂げていきます。
土地に定住する時間の長さが「文明」を生み、磨いていく。
これこそが「開拓」のプロセスの一部なのだなと感じました。
歴史の面白さを改めて感じた瞬間だったと思います。
4、文明格差のない時代へ
さてさて。人類が産声を上げた場所か否かという点をポイントとすべきかどうか、文明発展のスピードでは当初置いていかれていた国々は日本のほかにもあると思いますが、今やその差は世界中のほとんどの場所で感じることはありません。
お国事情で制限があるところもありますが、今やほぼどこに行ってもインターネットがつながっており、スマートフォンやタブレットが普及しています。
内戦に揺れる国々とも、たとえばLINE電話でつながることができます。
反面、特に技術文明の発展に関しては、その土地の住民があえて「未開の地」であることを守りたいという意志すら蹂躙しかねない勢いで広がっていることを危惧します。
守るべき「文化」は何なのか。それを常に感じながら、文明の発展を慎重に進めていく段階に、私たちはきているのかもしれません。
ではではまた。お付き合いくださった皆さま、ありがとうございます✨
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