人の命が「永遠」になるとき
こんばんは。
本日は短文になります。
今日また、とあるテレビ局の番組で、「亡くなった人」との「VR技術による再会」を導入に、SNSで亡くなった方へのメッセージを送り続ける人たちの思いが紹介されていました。
亡くなった方への尽きせぬ思い(それは恋慕であったりぬぐい切れない哀しみであったり、悔恨であったりもするでしょう)がそうさせる。そうすることで、今にも崩れそうな精神を支えている。
それぞれが、それぞれの「生きていける」力をそこに求めているのかもしれません。
私も若くして突然に亡くなった友人がおり、彼女が好きだった音楽を聴いたり、家の近くを通るたびに胸が締め付けられそうなさみしさを感じます。
しかし、VRで亡くなった方に似た映像を生み出し、悲痛にくれる人に会わせて慰めるというあのシーンだけは、受け入れ難いものがあります。
いかに努力して似せようとも姿かたちも声も、本人とはほど遠く。
その一瞬、心が癒えたとしても、その映像が消えた瞬間、その方は大切な方を二度、失うことになるのではないか。
その重さをこそ危惧しています。
それが一定の方に希望を与え、生きる気力を与えるという意義も理解したいと思いますが、その後の「心の在りよう」が案じられてなりません。
「命」を操る術は、それを行おうとする人たちが、何度も何度も繰り返し、その「意味」を己に問う必要があるのではないか。
技術の進歩によって、もしかしたら、人の命は「永遠」または「不老不死」に近い形にまで「変貌」してしまうのではないか。
人類の行く末はそれで明るくなるのでしょうか。
結論の出ない「疑問」が、またもや胸の奥にしこりを作った今日、この夜でした。
(Photo by Chen Liu on Unsplash)
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