地福寺 阿弥陀如来坐像

 京都の西京区にある西山浄土宗のお寺です。

 お電話をすると、「車だと、途中の道が細いから」と、奥様がバイクで迎えに来て下さいました。バイクで先導して頂いた道は、竹林の中を通ったりする、かなり遠回りの道だったので、ナビでは案内してくれそうもなく、そのお心遣いが有り難かったです。お寺の裏から入り、境内に駐車させて頂きました。(正面からの道には駐車できるところがない様でした。)

 真新しいきれいな本堂でした。お寺の裏から入ったのでそう感じたのでしょうが、お寺という感じより、個人のお宅の広いお座敷のような本堂でした。(バス停から歩いて来ると、立派な石垣や、山門に続くなだらかな石の階段があり、印象が違います。)
 
 きらびやかに荘厳された須彌壇に、黒光りした本尊の阿弥陀如来様が祀られていました。
 元は、この辺りにあった中山寺と云う大きなお寺の仏様だったそうですが、戦乱でお寺が焼かれそうになったため、仏様を7つのお寺に分けて移したそうで、地福寺の仏様も、その内の一つなのだそうです。

 阿弥陀様はどの仏様とも異なる独特のお姿をされていました。
 大きな鼻と厚い唇は、強い意志を感じさせます。眉はつり気味で厳しい感じがしましたが、頬はふくよかで丸く、さらに、とても大きな耳をされています。眼は半眼で細く、下から仰ぎ見るとじっと見つめられているようで少し怖いのですが、(失礼させて頂いて)少し上の方から見下ろすように拝観すると、静かに瞑想されている穏やかなお顔に見えました。

 螺髪は同心円状ではなく格子状に規則正しく並んでいて、浅く細かに彫られていますが、頭の後ろ側は、彫られていません。同様に、通肩に纏われた、左右ほぼ対称の衣のひだも背中にはありません。手は、阿弥陀定印を結んでおられますが、親指の先が水平よりかなり上がっていて正面からだと三角形に見えました。

 さらに、坐像の底が、何故か斜めになっているため、そのまま置くと前から見てそり返った感じになるので、真っ直ぐになるように楔の様なものを敷いておられるそうです。

 どの様な経緯で、この個性的な仏様が作られ、誰がどんな意図を持ってこの像を刻んだのか、勿論、私には全く分かりません。
 唯、黙ってじっとこの仏様の前に坐っていると、心が一点に定まって、しーんとしてくるのを感じました。そして、そのまま目を離さずにいると、仏様と自分との境が曖昧になり、心が一つになっていくことが、自然に起こって来ました。素晴らしい仏様に出会った時、これまで感じた「いいなぁ」とか、「魅力的だなぁ」と云うような華やいだ気持ちではなく、心にあるものが消えて、透明になっていく心地良さに引き込まれて行くような気持ちでした。

 京都市に修理と調査を依頼した時の写真などを見せて下さりながら、御住職と奥様が詳しく説明して下さいました。

 また、御本尊様が載っている仏像の本を見せてくださいました。そして、自分らは、この本に載っている全ての仏様を見に行くつもりだと、将来の夢を、楽しそうに話しておられました。先日も、その全てを回ったと云う、オーストラリアの若者が訪ねて来られたそうで、あなたもやったらどうかと、勧めて下さいました。

 お二人にお話を伺っていて、大変仲のいいご夫婦であるのがよく分かりました。

 大阪の法善寺横丁で、夫婦善哉をお二人で召し上がったら、とてもしっくりくる気がしました。
 「いつまでもお元気でいらしてください。」と、心に念じながら、色とりどりの花が風に揺れているお寺を、後にしました。