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玉虫色、清濁、あるいは不二

一見、ダンスと無関係に見えるひとまとまりの文をあてもなく書いて(これは嘘。本当は特定の人に向けて書きました)、なぜか、いがらっしのなかではダンス活動に直結している気がして、投稿しないではいられない。
おそらく、何の共感も得られないであろう、今日の投稿。

数日前のfacebookのダウンと、それに対するロシアの声明を目にして、Cのことを急に思い出した。

彼がビッグブラザー的なgoogle等を嫌っていたのが妙に記憶に残っているのだけど、しかも、その会話のあった当時はなぜそこまで神経質に嫌うのだろう、古いマイクロソフトが好きなのかな、と見当違いなことを考えたものですが、今になって、ああそうか、とわかる。
彼は並列的なインターネットを作った人(と言っていいのかわからないし、彼の功績をちゃんと理解してるわけじゃないが)で、きっと「並列的」であることに価値を感じていたんだろうな、と。
いわゆる自由や平等や自立に価値を見出していた、と。
森の中で杖を振り回したり、ディナーテーブルでスマホを見たり、ヨットのロープの引き方が遅いとあまり親しくもないいがらっしを怒鳴りつけたりして、奥様に注意されていましたが、それらの行動もある種、自由・平等・自立とその瞬間の熱意を根にして成り立っているともいえるし。まあ、それらの行動は他者にとって無害ではないので問題となってくる部分なのですが。

そういう人々のいる環境に身を置くことができた幸福を思います。(つらいことも多かったのは事実だし、その部分に目をつぶってはいけないとも思うのですが。)
なかなか、この感覚はほかの人と分かち合うことができない。

この玉虫色の、価値観と害・無害は別次元にある感覚。害・無害に関係なく、その価値観を大切に思う感覚。そして、その価値観を大切に思えば思うほど、害・無害に関して痛みを感じる感覚、通じるかなあ???


追加:数時間後に見てみると、「スキ」を2つもいただいている。うーん、わからないものだなああああああ。読者や鑑賞者に「通じないだろう」と考えることは、表現する側のおごり高ぶった視線なのかもしれない。猛省。表現する側は、通じる・通じないと思い込まずに、伝える最大限の努力を真摯に続けなければいけないなあと思いました。その結果通じなかったら、次の機会には通じるようにさらに頑張ることですね。

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