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「ちおぞみ」

過去に出会ったことのない感覚を発見するのが何よりも楽しい。そういうものに出会いたくて、起きている間中、実験と観察をしている。
今日は2週間前の木曜日に出会った感覚を書こうかと思う。

ところで、いがらっしはいつでも、身体のどこかの部分に注意を払っている。その部分に注意を払う期間は特に決まっていなくて、めったにないけれども1-2か月続くこともあれば、1週間以下のこともある。特定の部分に注意を払っていると、ある日、気づきに出会う。ここでいう気づきとは、新しい感覚の発見であり、ちょっとした自由さの獲得であり、同時に、なぜその部分が固まっているのか、なぜ前傾しているのかなど、自己の身体がもっている問題に説明を与えてくれる。
この気づきに出会うと、興味は次の部位に移っていく。あちらこちらの部位に注目したのち、過去に注目した場所に戻ることもある。それでもまた新しい発見がある。

2週間前の気づきは、腕に関してである。
しかし、注意を払っていた部位は――ここは名称があるんだろうか、いま解剖学の本を開いているのだが、おそらく菱形筋の一番下が背骨に接する部分、感覚としては鳩尾の少し上あたりであるが、適当がイラストがないし、名称もよくわからない。野口体操の野口三千三がへその後ろを「そへ」と命名していたが、それを踏襲して「ちおぞみ」とでもよぼうか。
二番煎じである上に、語呂が著しくわるいところが、いがらっしクオリティ。

まあ、ちおぞみ。そこに注目して生活して、何日目だったか。あれ、大胸筋がリラックスして与えられた長さを保っているな、と感じることが度々あったのだが、その日は、大胸筋どころか、腕が体幹から離れていることに気づいた。もちろん大幅に離れているわけではない。きっと数ミリの話だ。けれども、肩がプラプラで、一歩一歩進むたびに、腕が勝手にぷらんぷらん動く。異常に気持ちがいい。
前後する手はほとんど腿に触れることがない。
この状態では、背中のS字が美しくでるので、ペンシルドレスを着て悦に入ってしまう。このぐらい許してください。

人間の身体には600以上の筋肉があるそうで、その精密なつくりのおかげで、幸か不幸か同じような動きが違う使い方で実現できてしまう。いろいろな「歩く」が可能であるように。一方で、その精密なつくりのせいで(=おかげで)、設計された通りの使い方を実現させるのが難しい。目的の動きに対して設計された通りに使うと、負担が少なくかつ素早く効率よく、結果的に美しく動けるのだと思う。地球の歴史45億年。長い時間をかけて、生命はぜいたくにもシミュレーションではなく、物理的にトライアンドエラーを繰り返してきた。その最先端に我々はいるのである。生きて動いている我々は、そこの豆腐屋のおじさんであろうが、角の家のミカンの木にたかったアゲハの幼虫であろうが、抱っこですれ違った赤ちゃんであろうが、最も成功した生命のラインの最先端なのである。たかだか数十年の人間の理性などに拠らず、もっともっと身体を信頼していいはずだ。

いつもいつも使い方の「アタリ」が出るわけじゃない。けれども偶に「アタリ」に出会うと、自由でどこまでも広がっていけるような感覚を得ることができる。物理的な身体に限ったことではなく、自分の存在への無限の可能性に触れるような感覚である。体液と世界の交換が行えてしまうような、特別なつながり方。
そんなつながりに出会う瞬間をもとめてやまず、いがらっしは動くことと観察がやめられません。

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