見出し画像

こどもの頃に素地ができたかな

(つらつら書いた駄文です注意)


スピやオカルトに興味があるタイプなのだけども。
そういう素地ができたのって子どもの頃なんだろうなと思う。


物心ついた頃…4歳になる年だろうか。気づけば山の中の村で暮らしていた。父方の祖父の小さな家。よく5人で暮らしていたなと思う。

電気は来ていた。ガスはプロパンガス。水道は通っていなくて、山水を塩ビパイプで家まで引いていた。今思えば年中垂れ流しの使い放題の水はとても贅沢なものかもしれない。

周りは畑や田んぼ、点在する民家のみで『店』はなく、何か購入したい時は商店がある集落まで片道1時間の道のりを徒歩で行く(車は父親のみしか乗れなかった)という環境。

その頃はそんな環境に不都合を感じてはないなかった。何しろ『そういうものだ』と思っていたからだ。

保育園に通ってはいたが、徒歩圏内に同じくらいの子供はほぼおらず、園が終わったあとはほぼひとりで遊んでいた。ごくたまに坂道をのぼったところにある家の子供(小学生)と遊べたかな。


ひとりでいるのはそんなに苦痛ではなかった。
何しろ外に出ればいろいろなものがあった。

季節ごとの草花や虫を観察し、神社の脇の小さな沢にはサンショウウオや、遡上してきたと思われる尺もののイワナがいたり、橋の上から川面を覗けば魚の群れがいた。少し歩いていくと養蚕場があり、幼虫が桑の葉をカサカサと食べる姿を眺めていた。

雨の日には父親が持って帰ってきたマンガ雑誌を何度も何度も読み返していた。何しろ本屋なんてものは身近になく、長距離トラックドライバーの父親が暇つぶしで買ったマンガのお下がりはとても楽しいものだった。早熟なのか、文字は読めていたな。ここから『絵を描いてみよう』という気になったのだと思う。


こんな楽しみ以外に。ふと思考にふけることがあった。
『なぜ自分は自分なのか』と考えたり。
今、キリギリスを観察しているこの自分はなぜ自分なのか。
この体を持って、今この考えをしている自分はどこから来たのか。
なぜあのふたりから生まれて今ここにいるのか。

この世には『なぜ』と思うことがたくさんだ。

この頃に自分の中にイマジナリーフレンドが出来たかもしれないな。
自分の場合はその子といっしょに遊ぶ…例えばおままごとをする…というものではなく、脳内で対話するものだったから、端から見て『知らない(見えない)誰かと遊んでいる』というものではなかった。

「なぜ自分は自分なんだろう?」
『じゃあ他の誰かになりたい?』
「うーん…別にならなくてもいいかなぁ。もし他の人になったとき、今の自分が消えるかもしれないからそれはいやだな」


今もこのフレンドは自分の中にいると思っている。
例えば怒りの感情がぶわーっと湧いてきた時に、もうひとりの冷静な自分が頭の中にいる感覚がある。
我を忘れて怒る、ということがないので非常に助かっている(笑)
(ただ、周りの人間には激おこしてるように見えていると思うw)


そういえばこの頃にややオカルトな経験もした。
家の裏に生ゴミを捨ててある場所があり(ナチュラルコンポストだな)その下を少し掘ると、活きの良いミミズが取れるから釣りエサにしていた。

ある日ミミズを掘ろうと家の裏に向かったら、眼前に大きなヘビのようなものがうねりながら通り過ぎていくのを見た。
大人ふたかかえ程もある胴体は白地に黒の模様が入っていて、それは半透明で後ろの景色がうっすら透けて見えた。

( ゚Д゚ )う、ウワバミ?????

ウワバミならタバコのヤニで追っ払わなければと(←昔話からの知識)慌てて家の中に戻ったら、オカンが様子がおかしいのに気づいて「どうしたの?」ときいてきた。
でっかいヘビが出た!と伝えたら一緒に裏の様子を見に行ってくれたが、十数秒くらいの間にもうそれは消えていた。

(こんな話を否定も肯定もせずそうかそうか、ってきいてくれたうちのオカンはえらいなぁと思うw)


この田舎で過ごした頃に考えたことや体験したことが、今のスピやオカルトに興味津々!な自分を作ったのではないかと思うのであった。


なお、ウワバミのようなもののことを大人になってから能力ある人に「あれなんやったんやろな?」って訊いてみたら、「人の念(魂?)の集合体じゃないかな」てな返答を頂いた
なるほど、脳は自分の見知ったものに近い理解をしようとするのだな。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?