見出し画像

2_09_”結果志向”か”プロセス志向”か (その②)

このnoteは、投げ銭スタイルで投稿しております。
最後までお読みいただけると嬉しいです。

その①より続く)

それでは、今度は、”結果志向”についても考えてみます。
その①でもお話ししたとおり、元来、我々は、何かを成就しようとするとき、そこに至る過程に目を向けるよりも、最終的な結果に目を向けてしまう傾向にあるように思いますので、そもそも”結果志向”のほうが強くなると考えられます。それならば、”結果志向”については、もはや語ることなどないのかと言えば、そうではありません。
なぜなら、日常的に行っていて、一見簡単なように思える”結果志向”に対しても、気をつけておかなければならないことがあるからです。
それは、「出た結果に対して、きっちりと振り返って、改めて冷静に、様々な角度から評価することが非常に重要である。」ということです。

結果は、「良」か「否」かだけが問題ではありません。なぜ、そういう結果だと判断したのか。そして、そのような結果になったのはなぜか。さらに、それは、”誰のため・何のため”に照らしあわせた結果なのか。このようなことを考えなければなりません。
このように、出た結果に対する妥当性を確認するためには、そもそも、事前に、”どうなっていれば「良」なのか”という基準を設けておかなければなりません。もちろん、それが定量的でなく、定性的であっても構いませんが、きっちりと判定できるようにしておかなければなりません。”そんな基準はありません”という状態のまま物事に取り組み、その結果が良かっただの、悪かっただの言っても、それに確証はありませんし、その先の成長も何もありません。
このようなことに気をつける必要があるから、「”結果志向”=簡単」という図式で軽んじては行けないと思います。

以上より、結果を得るということは、”事前に設定した基準に照らしあわせて妥当性を評価すること”と、言えると思いますが、そう考えると、”結果志向”も”プロセス志向”と同様に、ドライな世界なのではないかと考えてしまいそうです。しかし、実のところは、そうではないのではないか。”結果志向”にとって大切なことは、方法論よりも、意外にも”気持ち”の面なのではないか。私は、そのように考えています。

”結果志向”で求めるものは、”結果”ですので、非常にドライになりがちです。そこには、”OKかNGか”しか存在しないので、そうなってしまうのは必然です。確かにそれは間違いではありません。しかし、”結果志向”で最も大切なことは、単に結果を得ることではなく、”結果を追い求める気持ちを持つ”ということなのではないかと思っています。つまり、良くも悪くも、結果を出そうと、課題に対峙する人間の問題です。
結果が良ければさらに高みを目指し、結果が悪ければ再度チャレンジする。”結果志向”とは、結果を追い求める気持ちを持つことであり、結局、”心が折れてしまったら終わり”の世界だと思います。
心が折れてしまったら、単純に結果を追い求めることはおろか、”プロセスアプローチ”に立ち戻って、もう一度努力してみようという気持ちになど、絶対にならないでしょう。
だから、”結果志向”は、一見、0か1かのデジタルな世界に見えて、実は、”結果志向”こそ、もっと泥臭い、もっとアナログな、人間の感情的な部分に直結しているのではないか思っています。

ここまで、完全に対のものとして、比較の対象として語ってきた”プロセス志向”と”結果志向”ですが、この両者で、まったく次元の違う話題があります。それは、「”結果志向”と”プロセス志向”の間には、”時間的な差”という決定的な違いがある。」ということです。
どちらかと言うと、”結果志向”は短期的視点になりがちであり、”プロセス志向”は中長期的視点になりがちです。
この二つの志向は、そもそもタイムスパンの長さが違うので、同じようにパワーをかけて取り組んでいるつもりでも、進展に差があるように思えてしまうことも多いと思います。
だから、そのときそのときで、良い結果が得られていないからと言って、一喜一憂する必要など、まったくありません。そもそも、同列に並べて、”どちらが良いか”を考える必要もありません。

同じように見えて、その実は、まったく異なっていることの例として、二つのバケツにそれぞれ水をためていくことが、よく引き合いに出されます。方や放ったらかし、方やコツコツと水をためていく。まだ水が溢れていない状態では見かけ上の結果は同じ。でも、コツコツとためている方が溢れ始めたときには、ものすごい差になって現れる。というもの。これは、”だから、コツコツと努力しないと、いつまで経っても良い結果は出ませんよ。”という意味でもあり、”見かけに騙されて、みんな同じだと思って、悠長にしていると、自分だけ取り残されてしまいますよ。”という意味でもあります。
”どうやって水をためていくか”というプロセスを検討する段階において、すぐさま結果を求めようとすることに意味がないかもしれません。逆に、”今、水がどのような状態にあるか”という結果を検討する段階において、悠長に、水をためるための方法論を議論している暇はないかも知れません。
そのときどきで、何を評価しようとしているのか、何を検討しようとしているのか、をしっかりと見定めることが重要なことだと思います。

草野球チームに所属して、趣味で野球をやっている私にとって、たまに行くバッティングセンターは、楽しみの一つでもあります。
先日、あるバッティングセンターに行ったときに目にした、ある親子のお話しです。
バットを握って、必死になってボールを打っているのは、小学校低学年くらいの男の子。その打席の外からアドバイスを送っているのは、その男の子の父親とおぼしき男性。
その男性が、男の子に送っているアドバイスは、「スイングをもっとはやく!」とか、「足元がふらついてる!」とか、20球~30球飛んでくる5分くらいの間にはとても改善できないようなことを要求してるいたので、少々驚いてしまいました。まだまだ体ができていないし、筋力も弱いので、それはそれは無理な注文だと思いました。改善するためには、相当な時間が必要です。
それこそ、「もう少し早めに振りだせ!」など、すぐに改善できそうなことを言うならまだ良いのですが、それが、まだ体ができてないことによる筋力の弱さからくるものなら、それも、今、その場でアドバイスするに相応しくないことだと思います。
そういうお父さんを見かけるたびに、「せっかく好きでやってる野球なんだから、お父さんがうるさく言うことで嫌いにならないでね。」と、祈るような気持ちで一杯になります。
すぐに改善できないようなことを話す前に、”タイミングの取り方”とか”ボールを目で追う方法”とか、そういう手前の話しをしてあげるほうがいいし、もっと言えば、そんな技術的なことよりも、良かったことを褒めたり、”ファールチップでもいいから、3球連続でバットにあたったら勝ち!”とか、”これが楽しい!”と思えるようにしてあげたり、そういうことのほうが大事かな、と思います。

このお話しのように、やはり、そのときそのときで結果を確認できるようにすることと、良い結果を出すために試行錯誤しながら努力を重ねていくこと、つまり、短期視点の”結果志向”と、中長期的視点の”プロセス志向”の両方とも重要で、しかも、常に行ったり来たりしながら物事を進めていくことが、心折れず、頑張ろうとする気持ちを持続させるだろうし、最終的には、結果を追い求めるために大切なことだと思います。

”結果”と”プロセス”の間には、非常に強い因果関係があります。だから、どうしても横並びで考えてしまいがちですし、どちらか一方に傾倒しがちになることでしょう。だから、それを防ぐためにも、”結果志向”と”プロセス志向”は、それぞれ独立しているものと考えて、両方共、同じように、偏りなくパワーをかけるようなものだと考えてみてはどうでしょう。
”結果を求める気持ち”と、”それを実現させるためのロジック”を、一旦独立して思考したうえで、後に、両者の相互関係を上手くコントロールすることで、いち早く、良い結果を得られる活動につながるのではないか、と思います。

最後は、少々概念的過ぎるお話しになってしまいましたが、ご理解いただけましたでしょうか。

Twitterやってます。
https://twitter.com/admin_butchake


ここから先は

0字

¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?