見出し画像

【現役テレビマンから見たテラハ騒動】視聴者は絶対に気づかない・・・やらせの先の〝ドキュメンタリー演出〟

 連日ニュースになっているテラハ事件について。一連の問題は、やらせの有無、誹謗中傷の助長(フジ的には炎上商法?)、出演者への配慮、メディアリテラシー、ネットリンチ/サイバーいじめ、ジェンダーや人種差別などなどが複雑に絡んでいるため、なかなか全体像を語るのは難しいのですが、テレビドキュメンタリー制作者として思うことをつづりたいと思います。

 まず、僕はあの番組が好きではなく、熱心な視聴者ではありません。なぜ好きではないかというと、台本がないというのに、みなどこか芝居がかっており、カット割りとまでいかないけど絶妙な位置にカメラがあらかじめ固定されている。視聴者としては違和感が多く、制作者としては危なっかしい気持ちになるからです。それを「リアル!」と感じる人もいるでしょうし、作られた感じも含めて楽しむ人もいるし、僕のように嘘くさく感じる人間もいます(出ている人の属性がいけ好かないといった好き嫌いとは切り離して考えているつもりです)。

 今回の事件に関して、「コスチュームを洗濯するように指示したか否か」「木村さんに激怒するように指示したか否か」は検証されるべきですが、いま、かつての出演者たちが「制作側からやらせの指示を受けたことがない」と発信し始めています。
 今回も、そうなのかもしれません(あくまで個人の憶測です)。
 だけど、テレビ番組である以上、制作者の意図が介在していないなどということは、絶対にあり得ません。そして、カメラに撮られている時点で、どこまでいっても〝素〟などというものは存在しません。緊張して恥ずかしい、何かいいことを言わなきゃ、鼻毛出てないか心配、とか大なり小なり思うものなのです
 被写体は、意識的にも無意識的にも演技する。これは、見世物としてのリアリティショーに限らず、現実の記録としてのドキュメンタリーにも発生することです。僕が撮影をしている時に最も取り除きたいのは、未処理の鼻毛などではなく、被写体がテレビ的に「作ってくる」ことです。「積極的に演技してくる」とも言えます。
 名の知られた番組ともなれば、自分をよく見せたいと思うのは当然だし、取材相手自身が「この番組だと、こういう時ってこういうことを言った方がいいよな」と思って発言してくることもあります。サービス精神が旺盛なのはとてもありがたいのですが、要するに、自ら「やらせ」をしてきてしまうわけです。
 個人的には、それはリアルの追求からは反するので、そうならないようにロケのアプローチを考えます。お互い信頼できる関係を築けるように努力します。そして、長く撮影していれば、カメラを忘れる瞬間は生まれます。そこに真実が宿ると思って密着取材とかやっています。あと、わざとくささを消したいのは、取材に協力してくださる相手が「放送の中で白々しく見えないように配慮する」という制作者としてのマナーに近い感覚もあります。

 ただ、ここが肝なのですが、「どこまでが、その人の自発的・内発的な行為なのか」という線引きに、明確なものはないのです。
 「まったくのウソだけど、求められているだろう振る舞いを自らした」、「本心だけど、ちょっと盛って発言した」、「ディレクターへのリップサービスだったが、ウソではない」、「信頼できると思って、偽らざる本心を話した」などなど、グレーゾーンの中に無数のグラデーションがあるんです。
そこにはディレクターの志向や手腕、被写体自身の演技力も関わってきます。どこまでが事実で、どこまでが虚構なのかジャッジが極めて難しい。よほどの捏造か歪曲でもない限り、ジャッジできないと言ってもいいくらいです。

 さらに、手練れの制作者になってくると、取材相手の気持ちや感情を自分の意図にしたがって相手に気づかれないまま誘導することもできます。
 これは別に、悪の道に引きずり落とすといった話ではありません。たとえば、反目しあっているAさんとBさんに番組のラストで仲直りしてもらってハッピーエンドに・・・とかといった狙いでロケの作戦を立てることも、決して珍しくありません。
 ディレクターの立ち振る舞い次第で、Aさん・Bさんを「番組のために」という意識もないままに、和解させることも可能です。単なる記録ではなく現実そのものまで作用してしまう、ドキュメンタリーの撮影にはそういう怖い一面があります。同時に、これがドキュメンタリーの世界における「演出力」とも言われます。

 ドキュメンタリーの世界では、「制作者の意図や恣意が介在している」ということを、被写体や視聴者にどれだけ気づかせないかが、芸のひとつとされてきました。こちらから取材先にお願い・指示するのは三流で、こちらの意図を明かして共犯関係を組んでシーンを撮るのは二流やることなんですね(時と場合によるけれど)。一流は「池に小石を投げて、その波紋を撮る」と言われます。
 それはリアリティショーにおいても、ほぼ一緒だと思います。検証結果が出ていないのであくまで憶測ですが、テラスハウスの制作ディレクターは、二流・三流の芸はやっていない。出演者たちに、いったいどんな小石を投げていたのか? 
 深い池から小石を拾い出すのはそれまた至難の業ですが、それをちゃんとつぶさに検証しようとしないと意味がないと思います。「明確な指示はした事実はなかった、出演者が制作者の意図を超えて『積極的演技』したのを止めようがありませんでした。アフターケアが足りませんでした」というままに終わってしまう可能性があります。カメラを向けたら勝手にテラハが生まれるわけはないので、そこはちゃんと考えないといけません。番組Pは編集を作り込む派らしいけど、撮影が野放しとは考えにくいです(以前の彼女のインタビュー記事は作り手として共感できる部分もあるだけに、今回のことはとても残念ですhttps://www.creativevillage.ne.jp/34036)。
 
 ことほどさように、人の心理に関する「やらせ云々」というのは簡単な話ではないのです。
 もちろん誹謗中傷を書き込む人が悪いと思う気持ちは、同業者なのでとても強いです。ただ、人の人生を扱う番組の制作者の責任というものは重たいと思っています。出演者を守るのも、我々の仕事だと痛切に感じます。

あくまで一個人の考えです。てな感じで、おやすみぶーこす(^(●●)^)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?