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  • 浪人生活と哲学的かもしれない懐疑

    ぼくが主に大学受験で浪人していたときに感じた疑問とそのときに感じた「哲学的かもしれないこと」について書いています。

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特別企画:哲学対話インタビュー 清水将吾さん

 今回からこのnoteでは、不定期に、さまざまな方にインタビューをおこなっていきます。第1回にご登場いただくのは清水将吾さんです。清水さんは、イギリスのウォーリック大学哲学科で博士号を取得された後に日本に帰国され、哲学対話のファシリテーターを務められるようになりました。現在は大学で講師をされる一方、めぐろ哲学カフェでのファシリテーターのほか、NPO法人「こども哲学大人哲学アーダコーダ」で子どものための哲学のイベントを不定期で開催されています。  そんな清水さんはご自身の哲学の

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    • ファンだと言うことの恥ずかしさ(仮)

      (登場人物) A……Bの後輩。永井均のファンだけど、ファンを公言するのが恥ずかしい。 B……Aの先輩。 好きな本も売ってしまうことがある A「好きな本ってありますか」 B「好きな本ねえ。なんだろうなあ。きみはある?」 A「いやー読んでもすぐ忘れちゃうんですよね。売っちゃうし」 B「好きでも売っちゃうわけ?」 A「売ることもありますね。たとえば『もう、この本に書いてある主要なことは自分にインストールされた』と思ったら売る。あとは、お金に困って渋々売る。で、売り飛ばしたことで

      • 浪人生活と哲学的かもしれない懐疑(6)

        3浪目に受験勉強をしながらぶつかった問いのひとつは「わかるとは、理解するというのはどういうことなのか」だった。自分が受験勉強のなかで思うように成果をあげられないのは、自分がわかるということがわかっていないからではないかと思ったからだ。 受験勉強中のある日、この「わかるとは何か」という問いは棚上げすべきだし、そうするに限るのではないかと考えた。 * 哲学の歴史を紐解くと「言葉の意味とは何か」という問いが出てくる。この問いについて考えた人のひとりに、ウィトゲンシュタインがいる

        • 浪人生活と哲学的かもしれない懐疑(5)

          (概要) この文章は、ぼくが主に大学受験で浪人していたときに感じた疑問とあとから「これは哲学的な疑問と言えるかもしれない」と思うことについて書いています。 今回は、以下の続きです。 https://note.com/buta_rowe/n/n97db47f00d74 塾で、数学Aの基本問題を問いていたときのことだ。問題はこんな感じだった: 2桁の自然数の集合を全体集合とし、4の倍数の集合をA、6の倍数の集合をBと表す。このとき、A∨Bの要素の個数はいくつか。 このとき

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        特別企画:哲学対話インタビュー 清水将吾さん

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        • 浪人生活と哲学的かもしれない懐疑
          4本

        記事

          浪人生活と哲学的かもしれない懐疑(4)

          2浪目、1年間を通じて一生懸命勉強をしたわけではないが、秋か冬頃から自分なりにまじめにやりだした。合格すると思っていたので、センター試験の総得点が現役のときとそれほど変わらないことにショックを受けた。今思えば、半年近くは一日に2時間かそこらしか勉強していなかったのだから無理もないが、そのときはそうは思えなかった。自分は本番に弱いうえに、何かものごとの理解が根本的に間違っているのではないかと思うようになった。 3浪目からは、近くの塾を勉強部屋のようにして使わせてもらった。朝か

          浪人生活と哲学的かもしれない懐疑(4)

          2浪目とテレビ

          今回は、以下の続きのような文章です。 https://note.com/buta_rowe/n/n12f882b22641 大学受験の2浪目、自宅で浪人をすることにした。 アルバイトをやめて勉強に集中できる環境になったはずなのに、勉強そのものは進まなかった。高校生のときより体重が増えていくのに歯止めをかけようと思い、朝起きたらまずはジョギングをすることにした。ジョギングから帰ってきたら朝ごはんを食べて寝た。 起きてすこし勉強をしたら、昼ごはんの時間になる。ごはんを食べ

          2浪目とテレビ

          死を「思えない」

          「死ぬのが怖いと思ったことがあるか」 そういうことをおもったことがあったかを思い出そうとしたが、はっきりとおぼえていない。小さなころは母親に連れられて新興宗教の施設に行っていたのだから、何かしらあっても良さそうなものだが、すぐに思い出せることはない。 戦死した人が生霊となって、生きている人間の首を狩ることがある、という話を上級生から聞かされた。小学校1年生のときだった。その夜、おねしょをした。 21歳のときに、池田晶子をよく読んでいる人と話をしていた。彼が「死が怖いのでは

          死を「思えない」

          浪人生活と哲学的かもしれない懐疑(3)

          (前回は以下) https://note.com/buta_rowe/n/ndf395391a398 1浪目の12月ころだった。家で勉強しながら、数学のベクトルが致命的にできないということに気がついた。センター試験まで1ヶ月半を切っていた。教科書のベクトルの章を最初から読むことにした。ベクトルの基礎はデカルトによって考え出されたようなことが書いていた。倫理の教科書と副読本を読み始めた。 その2週間後、自分はもう受験をしても無駄だから大学受験はやめると母親に言った。すぐに働

          浪人生活と哲学的かもしれない懐疑(3)

          浪人生活と哲学的かもしれない懐疑(2)

          (前回の続き) ところで、この文章には「哲学的かもしれない懐疑」というタイトルをつけた。「かもしれない」というのは歯切れが悪いが、そう書きたかった理由がある。 ・学問ジャンルとしての哲学をよく知らず、自分の問題が哲学とリンクするのか今もはっきりとはわからないから。 ・「今日できることは明日もできるのか?」という問題は、あくまで自分個人の能力の問題だと感じていた。だから、他人にはなんら関係がないかもしれない。ゆえに哲学とは関係がないのかもしれないから。 今も自分の問題が哲学

          浪人生活と哲学的かもしれない懐疑(2)

          浪人生活と哲学的かもしれない懐疑

          大学に入るのに3年間浪人した。長すぎる受験勉強は自分をおかしくした。今も尾を引いていると思う。 3浪目によく疑問に思っていたことがある。ひとつは、今日できることは明日もできるのか? というものだ。今日この問題が解けたとして、それは明日も解けるのか。解けたとして……受験当日、その問題が出たときに本当に解けるのか。 もうひとつは、数学的帰納法を勉強しているときに感じた。そのとき覚えた帰納法は、 n=1 のとき P が成り立つ。 n=k のとき P が成り立つと仮定すると,n=

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