【いつかふたりで】 リライト
「ベーグル、温めますか?」
やや小柄な彼女の癖なのだろうか、僕の目を覗き込むようにしてそう聞いた。耳の下あたりまで伸びたさらりと流れる髪がカフェの照明を映して、エントランスの天井の高さに気付く。
彼女の出勤してくる姿を何度かみたことがある。穏やかな所作と言葉からはイメージのつかないカワサキの大きなバイクに乗っていて、それはとても様になっていた。通勤中にヘルメットで抑えられているからだろうか、いつもシュッと収まった髪は凛としたものを感じさせて。
「あ、どうも」
同時に自動ドアが開いて、通りの車の乾いた音に消されてしまうような音。なにか気の利いた返事をすればよかったと思ったけれど、ベーグルを温めることに対していったいどんな気の利いた言葉があるだろう。よくわからない。
エントランスのカフェの子が可愛いと言うことで一時期社内でも少し噂になったことがある。いつのまにか彼女に向けられていた大衆の好奇心は違う女性へ移っていったのだが、それでも彼女が魅力的であることは変わらなかった。それに、朝から混み合うカフェでの彼女の対応はとても優しさに溢れていて、いつからか僕は彼女に恋をしていたのだと思う。
今日二杯目のコーヒーを買い、オフィスの奥の部屋へ会議に向かう。よく考えてみたら、僕は何かの大事な仕事の前にここでコーヒーを買う傾向があるな、そんなことを考えているうちに会議はどんどん進んでいき、急に話をふられた僕は、まるで5W1Hについての英語の授業を休んでしまった中学生のように慌ててその場を取り繕い午前の仕事を終えた。
☆ ☆ ☆
この物語を進める前に、僕のいた時代について少し書こうと思う。僕、この話に登場する僕は今よりずっと若く、世の中には活気があって、僕を取り囲む多くのものはまだ形を持たずにいた。その蕾は目に見える形で日々産み落とされ、そのいくつかは今よりおおらかで、そのいくつかは今よりある意味では厳しいものであった。
都内にビルを持っている会社に勤めていた僕は、毎日を忙しさに追われていた。よくわからない社内の規定と必要のなさそうな社内伝達(そのうちのどれほどが伝達され、そしてその中のどれだけが理解される必要のあるものなのだろう)用の書類。時間の足らない一日。息切れしながら夜を迎えて、仕事が終わればときどき酒を飲んだ。愚痴を吐いた。転がり込むように部屋のソファーで眠りこけ、朝の目がどれだけ重くとも変わらず忙しい朝がやってきた。ちょっと前までは、少し早く部屋を出て出社前にカフェで目覚めのコーヒーを飲んだりすることもない日々だった。起床時間を自分で決めることもない。覚醒よりも混沌。そんな時代だ。
個人の時間を過す日常は遠く、ぼんやりとしたベールに包まれたような感覚の中の非日常は近い。街を彩っているものは個ではなく、すれ違う人は皆景色のように流れていった。今でこそSNSなんかでみられる個人の世界は決して陽の当たるものではなく、それは本棚にならんだ何千もの書物の中の数ページにも満たないようなサイズであくまでも個人的に存在していた。全ては己の手でページをめくり、読み込まなければわからない程に。そんな時代だ。
☆ ☆ ☆
「あ、どうも」
彼は今日もそっけなかった。そっけなかったというか仕事前でそれどころじゃないのかも。ベーグルだって温めて美味しいものと常温のままの方が美味しいものがあるのにそれにすら気づいてないのかも。サーモンとクリームチーズのものを買ったとしても、温めますかって聞いたら同じ答えを言うに違いない。かわいい。
今日も仕事はお昼過ぎのピークを終えたらおしまい。静かな場所でのんびりしてから帰ろう。外の街路樹がきれいだね。そろそろ紅葉かな。まだ葉っぱはしっかりしているけれど、季節の変わり目を感じられてなんだかいい気分で朝を過ごすことができたよ。
☆ ☆ ☆
会社から少し離れた国道沿いのビルの谷間に田町八幡と呼ばれている神社があって、そこにある小さな社へたどり着くには小高い丘ひとつ分の階段を登らなければならなかったけれど、深い森に手のひらで優しく包まれるように建てられたその場所はたまの息抜きに最適であった。
息が少しきれる。それでも階段を登った先にある空気は特別なものだったし、仕事で抱える疲労とは違った心地よさがあった。途中にある景色の良いベンチに腰をかけて休んでからお参りをしようと思ったが、そこには先客がいたので先にお参りをすることにした。
パンッ、柏手をうってから引いたおみくじには『大吉』と書いてあり、『恋人・あわてず心をつかめ』とその詳細が書かれていた。あわてない、その自信はあるけど心のつかみ方を教えてくれよ、ボソボソと口にしてみる。
何となく気になっていた先ほどの景色を思い出してみると、先程のベンチにいたのはあのカフェの彼女であるような気がした。僕は何かの運命とかを信じることは少ないけれど、おみくじは大吉だと言っている。
気付かれないように遠くから見るとやはりそれは彼女であった。大吉だ。僕はゆっくりと、大きく円を描くように回り込んで近づいて、ゆっくりと覗き込む仕草をして会釈をした。
最初は焦点を僕に合わせていない目で僕をみていたけど、数秒で思い出したように僕のことを認識してくれた。
少しだけ話をした。個人的な深い部分ではない話。当たり障りのない話。心をつかむどころか話のつかみもつかめない。会社に戻らなきゃ、そう言って僕はその場を離れた。早足で。
その後しばらく彼女をみることはなかった。毎日朝と午後にカフェをのぞいても彼女の姿はそこにはなかった。それはまるで彼女自身が世界から彼女と言うページを破り取ってたように突然に。彼女のいそうな雰囲気のカフェにいつものように並ぶ。そしてコーヒーを買う。バッグにたまったレシートをまとめて丸めてゴミ箱に捨てた。財布とメモ帳、計算機。すっきりしたものだ。大吉のおみくじはまだ大事にとってある。
☆ ☆ ☆
待ち人は遅れて来たる。わたしのおみくじに書かれていた言葉。待っていたわけでも待合せをしていたわけでもなく、偶然いつもの神社で彼と合った。話をした。たあいもない話だったけど、彼にも仕事以外の世界があることが新鮮だった。
おかしな話。みんな仕事の姿だけのはずがないのに、出会った場所が職場だってだけでその人の人生の中心が職場にあるような気になってしまう。
彼にも仕事以外の顔があった。それだけでもなんだか世界が広がっていく気がした。どこかで惹かれていく気持ちがあった。だからわたしはしばらくの間仕事を休もうと思った。勝手でみんなには申し訳ないけど。職場以外で、たとえそれが偶然であったとしても彼と会ったことを知った誰かが余計なことを言うかもしれない。変なの。そんなことを恐れている自分がいたの。
☆ ☆ ☆
その日は朝早くから撮影を何箇所も短時間で撮って廻った。移動中のバスがトイレ休憩で第三京サービスエリアに寄った時のことだった。何台も並ぶバイクの中に彼女のものと同じ緑色のカワサキのバイクがあった。僕は彼女の姿を探した。しかし、いくら目を凝らしても彼女の姿を見つけることはできなかった。考えてみれば同じ色のバイクなんていくらでもある。でも少しの可能性でもあれば彼女とまた話がしたかった。
次はいつ行けるかわからないので思い出したようにトイレへ向かった。トイレの中は広々としていて、外よりもずっと寒かった。簡素な作りの壁の構造は冬の風の入る隙間を狭めることでより強く鋭い風を作り出していた。手を洗うにもお湯が出ない。寒い。ハンドタオルに残るバスの中の暖房の余韻だけが救いだった。
トイレを出てふと前を見るとそこには彼女がいて、びっくりした僕はハンドタオルを落とた。会社の懇親会か何かでもらったハンドタオルとは言えないような愛想もクソもないものだ。それは風に吹かれて彼女の足元に流れていった。もごもごと言葉にならない言葉が出そうになったが、勇気を出して声をゆっくりと、緊張を気づかれないように絞り出した。もちろん細心の注意を払ったが少し震えていたかもしれない。でもそれは寒さのせいにすればよかった。
「おみくじ、この前引いたんです。覚えてますか?」
挨拶もせずに、僕はいったい何を突然話し出すのだ。
☆ ☆ ☆
待ち人は遅れて来たる。あまりにもいきなりだったけどうれしかった。本当に。でもトイレの中で出会わなくてよかった。
☆ ☆ ☆
彼女はニコッと笑って頷くと、拾ったハンドタオルを手渡してくれた。
「ええ、もちろん覚えてます。で、大吉でしたか?」
デニム色のデニムに革のジャケット。その姿の彼女は、僕の人生であまり出会ったことのないような特別な魅力があった。夜間はデザインの勉強をしていると言っていたのでやはり何か秀でたものがあるのだろう。僕はこれからまたロケで移動なんだと話すと、彼女は事故で少し入院していたと話してくれた。彼女はペロッと小さく舌を出すと首をすくめて顔をくしゃくしゃにした。もっと話そうと話題を探そうと焦ったが、心の中でおみくじに書かれていた言葉が繰り返された。『恋人・あわてず心をつかめ』、か。
そうこうしているうちに「あー先輩!こんなとこにいたんだぁ。もう出ますよ!」と彼女の後輩らしき男が声をかけて彼女を連れ去ろうとしていた。
「あの、また会えますか?」
僕は聞いた。
「はい。来週からカフェに。今日はリハビリrideなんです。お仕事頑張ってくださいね」
彼女はそう言って、仲間の方へ戻っていった。
☆ ☆ ☆
でも本当に驚いた。まさかあんなところで会うなんて。自分で仕事休んでおいてこんなことを言うのもあれだけど、久々に会えてなんだか嬉しかった。来週からまた仕事だ。それにしてもいつもわたしを下の名前で呼ぶあいつがたまたま先輩って呼んでくれて助かった。
いつまでもこんなふうにいれたらいいな。ひょっとしたらうまくいくかもしれない。いや、ダメだ、希望を持っちゃダメかも。タイヤが小石を弾いた。冬の間だけの乾いた音。
☆ ☆ ☆
コンサート、居酒屋、大江戸温泉。短い期間で僕たちはいろんな場所へ一緒に行った。しかしそこには決して埋めることのできない距離が存在した。僕たちは結ばれる運命にないのかもしれない。そんなことを考えた。そして時々暗い気持ちにもなった。
思い出してみると、一度だけ手を握ったことがあった。大江戸温泉に行った時のことだった。待ち合わせ時間を決めておいて、時間ちょうどくらいに着替えを済ませて、決めておいた休憩所へ戻った。彼女はきちんとお化粧をして髪を整えて、まるで温泉に入る前と同じような姿でそこにいた。浴衣姿の彼女はとてもきれいで、なのに僕は洗いざらいの髪をボサボサにしたままで。僕は急に申し訳なくなった。約束の時間の何十分も前に彼女は温泉を出たのだろう。もっと長く時間を取ればよかったのだ。
でも僕たちにはまだ次がある。その時は今日の反省を活かせるはずだ。次のデートの予定を考えつつ、夕食とビールを一緒にとるためにレストランへ向けて板の間を歩いた。途中彼女が足を滑らせて転びそうになったところを、僕は人生で最高の反射神経を持って彼女の手を取った。冷たい手。それは体温の高い僕とは全く違うものだった。それっきりだ。彼女はありがとう、そう言ってにこりと笑うと再び歩き始めた。
僕らは一定の距離がありつつも時々会話をして、思い立ったように少しの時間を一緒に過ごしたりしながら一年が経ちまた次の冬が来た。
ある日、カフェで朝のコーヒーを受け取った時だった。
「ちょっと待っててくださいね。これオマケです」
仕事中は敬語で話す彼女。かわいい。そして透明の袋に入った小さな焼き菓子を手渡された。きつね色に香ばしく焼かれ焼き菓子。マドレーヌみたいな。その瞬間の彼女はセサミストリートのキャラクターのようにチャーミングで、内面から鮮やかな色で彩られているかのような笑顔で。
「うわ。嬉しい。このあとのミーティングの間に食べます。もう疲れて死にそうだから。ありがとう!」
「きっと効きますよ。特製ですから」
彼女はいつも通りニコッと笑った。そして再び彼女はカフェから姿を消したのだ。
☆ ☆ ☆
手紙を書いた。そしてそれを誰にも気付かれない場所に残した。誰にも読まれない手紙を残すのはせめて自分の中で救われるものを見つけたかったからかもしれない。これ以上なにかを望むのならきっと傷つくことにも傷つけることにもなるから。だから、わたしは今までと同じようにこの距離を崩すことはできない。そのことがまた私たちを傷つけていく。それがわかっているから、さようなら、わたしの愛おしい人。どうか、あなたの大吉がわたし以外の誰かとのものでありますように。少しだけでも繋がることができた。そのことはわたしの人生でとても大切なものです。それは過去になってどんどん離れていくだろうけど、わたしも、あなたも、この楽しかった時間に、何時でも、いつまでも繋がっているのだと。あなたが幸せでありますように。
☆ ☆ ☆
長い一日の終わりの窓に映る夕陽。鮮やかなのに、それはそこには存在しないかのような夕陽だった。僕はここでなにをしているんだろう、そんな自問のような浮遊感を味わいながら、どこかで大事な何かを忘れているような気がした。そうだ、思い出してすぐに貰った焼き菓子をポケットから出すと、袋の裏側に小さなシールが貼ってあるのに気がついた。そのシールは小さな手紙のようになっていて、封をはがすと中にはメッセージが小さな字で丁寧に書かれていた。
「しばらくバイク旅に出ます。このつづきは、おみくじを引いてください」
意味がわからない。そのメモを見ていると同僚が僕に話しかけてきた。それは彼女についてのことだった。会議室の前、昼間よりも明るく灯った電灯がチカチカした。
彼女はきっとあの場所にいるに違いない、そう思い会議を無視して飛び出した。
それでも田町八幡へ向かう頃には完全に日が暮れていた。急いで階段を登り、休むことなく以前の偶然のベンチへ向かうもそこには彼女の姿はなかった。探し回っても。目を凝らしてみても、境内のどこにも彼女の姿はなかった。当然だ、彼女はここに住んでいるわけではないのだ。
それでも探さずにはいられなかった。僕は今、彼女に会わなくてはいけない。二年だ。知り合って二年にもなるのに僕たちの間に共通の場所なんてここ以外にはなかった。同じ場所に二度いくことがなかった。まるで彼女がそれを避けているかのように。
なによりも僕はもらった焼き菓子以外にも気づけなかったことばかりだった。それなのに僕は自分の感情を恋だとか愛だとか運命だとか大吉だとか、あせらず心をつかめだの。自分の感情を、自分のことばかりを。これじゃ大江戸温泉の時と同じじゃないか。
必死で探していると目の前におみくじを結く場所があり、バイクの絵が描いてある一枚が目に入った。このことだった。
「理由があってバイクの旅をしてきます。ねえ、もしあなたがこの手紙を見つけてくれて、この先も私のことを覚えていてくれる、そんな未来があったなら、来年の大晦日にここで会いたい」
涙が出た、そう書くと安っぽく聞こえるかもしれない。でも確かに涙は止めどなく流れ、同時に僕たちがどこかで繋がっていたことを知った。その繋がり方は肉体を伴うことのない繋がりだった。それがピュアであったとかそんな話ではなく、それが僕と彼女の今までの繋がりであった。
「ベーグル、温めますか?」
彼女の声が聞こえた気がした。彼女はあの日温泉に入らなかった。手も冷たかった。他の場所にしようって何で言ってくれなかったのかとか、どうして本当のことを言ってくれなかったのかなんて僕には言うことはできない。彼女は彼女なりに考えてそうした。それだけのことなのだ。
僕は空を見上げてなにか呟いた。何を呟いたのだろう、強い風にそれはさらわれていった。真っ暗なんかじゃない、彼女を思うと空に浮かぶ全ての星が輝いているように思えた。僕はポケットからボールペンを出して『信じるチカラをください』そう書こうとしてやめた。
ペンも絵馬もお互いに硬くて上手く書くことができない。それでもかじかむ手を緩めて何度も薄い字をなぞった。時間は不安を募らせていくけれど、僕の言葉として、きっと彼女の言葉としても、『ここで待っています』そう書き足した。
深い森の葉の落ちた匂いと冷たい空気が音になって耳と耳の間を通り抜ける。冬の空はどこまでも澄んでいて、目を閉じてもそれはどこまでも広がった。やがて瞼の裏に小さな白や黄色の光がチカチカとしてきたように感じて、目を開けた。目を閉じる前と同じ、群青を重ねた空。
また目を閉じて、今度ははっきりと自分の気持を言葉にした。それはもう風に流されることなく、いつまでも繋がっていくのだと。そして、僕も彼女もきっと幸せになれるのだと。
気になる曲を選んで、自分の思い描く物語の続きをどうぞ。
【おしまい】
本日も【スナック・クリオネ】にお越しいただいき、ありがとうございます。 席料、乾き物、氷、水道水、全て有料でございます(うふふッ) またのご来店、お待ちしております。