「真理」は「見つけるもの」か?

 どうも、お久しぶりです。3ヶ月のご無沙汰でございます。教育実習、研究計画の準備等々でバッタバッタしておりました。

 久々に少し時間ができましたので、何となくまた書きたいなーと思い、noteを立ち上げました。

 昨日、図書館に立ち寄った際、ずっと気になっていた「ニコラウス・クザーヌス」という中世ドイツの哲学者・数学者の『学識ある無知について』(訳によっては「知ある無知」とも)という本を手に取ってみました。まだ全て精読したわけではなく、ざっとスキャニングした程度ですが(クザーヌス先生に怒られますね、すみません)、真理と知性、「無知」に関する興味深い考察が展開されていたので、私の方でも少々雑感を述べてみます。

 「無知の知」と聞くと、真っ先にソクラテスを想起しますよね。確かに似ている概念ではありますが、以下の記述を読むと、クザーヌスは異なった角度からアプローチを試みていることが分かるかと思います。

  「最も探究心の旺盛な人間にとっても、自己自身に内在する無知そのものにおいて最も学識ある者になるということが、学識上最も完全(だから)である。」

  おそらく、何よりも先に「無知である」という究極の事実を「知る」ことが、その後の生活や学び、人間性の充実のためには不可欠な要素となるということなのかなと解釈しています。ソクラテスの「対話の深化によって自身の無知を自覚する」流儀とは順序が逆だという印象を受けました。

 さらにクザーヌスは、知性を多角形、真理を完全な円と捉え、「どのように多角形の角を増やしても決して円には近づくことができないのと同様に、どれほどの知性をもってしても、人間は絶対に真理に至ることはできない」と指摘しています。クザーヌスはキリスト教の人ですので「神」という言葉も「真理」を説明する際に用いているのですが、個人的に彼のアナロジーはかなり腑に落ちました。そもそも「真理」という概念そのものも、クザーヌス流に言えば、不完全な「知性」を持つ人間が生み出したものだからです。

 この仮説でいくと、真理は「見つける」「到達する」ものではなく「創る」「生成する」対象であると考えることも可能となるのではないでしょうか。

  人文学・社会科学・自然科学、あらゆる学問において、必ずそこには人間の解釈が存在しますが、それらの解釈は、どれほど多角的に分析・検証し、統合・付加していったとしても、結局のところ人間的な視野から脱することはできません。

 「え、数学って一つの答え(真理)に必ずたどり着かなきゃでしょ」というご意見が聞こえてきそうです、確かに私もその疑問に対する十分な回答が用意できているわけではありません。

 しかし、そもそも数式ですらも、人間が作り出してきた恣意的な「記号」です。トンデモ仮説になりますが、この地球・この世界では通じている定義・定理であったとしても、もしかすると別の惑星・別の世界では、それらは全く通用しないかもしれません。そして現段階の人間の科学技術では、別の宇宙や世界へ赴き24時間張り込みで観察することはほぼ不可能に近い以上、我々の数学が通用しない状況が「絶対にないということは証明できません」。こう道筋を作ってゆくと、数学においても、「答え」なるものは我々が「作り出していっているもの」ということになるかと思われます。

 真実や真理の意義に、意味を付け足し、それらを追い求めているのは人間であり、それそのものに意味は存在しないのだと近頃は思っています。

 であれば、何か自明の「真理」なるものが既に存在するのではなく、「自分(たち)にとっての/自分(たち)なりの回答と次への道標を創る・生成する(「創る」という行為自体、名前のつけがたい未知の成果物という結果が前提にあるので、「真理を生成する」という表現は少々矛盾しています)という発想に転換しても、罰は当たらないのではないかと。

 より理想を言えば、「真理」という円と「知性」という多角形を重ね合わせた時に発生する「真理'」に何か名前を与えるとしたら何が適切かな、といったところです。

 久々の投稿で何ぬかしてんだという感じで、しかも私もまだまとまっていない中大変恐縮ですが、哲学の小宇宙を生成しようという試みも悪くないものですね。

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