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自衛隊は国防軍なんかにするのではなく、国立災害救助隊に〜自衛隊の存在意義とは〜

■自衛隊はなぜ「自衛隊」なのか 

自衛隊の話をするとパヨクなんてなじられるが、私は今の日本の、風景、祭り、食べ物、そして生きる人々が好きな普通の日本人だと思うけどね。

その昔、太平洋戦争というすごい戦争があって、日本は都市とともに、その政治の仕組みも大きく変わった。

当初、日本は、戦後にできた日本国憲法の中においては、他国との紛争解決の為の武力を持たないとした。

しかし、その後何年か経ち、朝鮮半島で起きた朝鮮戦争で、やはりまだ当時は明確な軍を持っていなかった大韓民国(略称:韓国)の代わりに、ずっと彼らを支援していたアメリカを中心とした連合軍が、その朝鮮半島のすぐ隣の日本の駐留基地から出撃した。つまり、日本は、もしも朝鮮戦争で朝鮮民主主義人民共和国(略称:北朝鮮)及びその連合軍を形成していた中華人民共和国(略称:中国)やソビエト連邦(略称:ソ連 のちのロシア)が、アメリカ側よりも優勢になった場合には、基地として国の土地を攻撃される可能性があった。また、日本国内は日本人として生き残った警察官とアメリカ軍のMPによって治安は保たれてたが、MPの多くは朝鮮戦争に出征するために、警察の増員と強化が米軍から要求された。さらに、そこに北方領土や九州沖の島しょ部、まだ返還されていなかった沖縄など様々な領土の問題と敗戦国としての問題、更には少し生き残っていた旧日本軍を夢見る人たちも加わって、国軍の復活を求める空気が高まっていった。

一方で憲法で軍隊の放棄をうたっていることから、当時の政治家らは頭を巡らし、知恵を配した。

軍事力を「軍」と言う国際法上の「国家の戦闘組織」に持たせるのではなく、国内法でもしっかりと規制される警察の様な「行政機関」に持たせることにしたのだ。行政機関というと税金等の役所の窓口にいるような人達を思い浮かべるが、警察や消防も行政機関であり、その一員である警察官は職務上必要なので「短銃」という武器を持っていることから、その延長というか強化したものが戦車等の装備なのだと位置づけたのだ。

しかも、この軍事力は、「憲法を順守する」ために、他国に対して、他国との紛争解決に使う手段として保持するのではない(つまり周辺諸国に対して侵略的な戦争はしない。)とし、あくまで、他国から侵略的行為を受けた時の為の自衛手段として持っているのだと主張したのだ。

また、上記の様な見解で軍事力を装備していく自衛隊において、その装備は金額として大したことはなく、「戦力」を持たないというその「戦力」にははるかに届かないとしたのだ。しかし装備どんどん膨らみ、隊員数も大きくなり、他国と戦闘できる「戦力」となったことは様々な角度から明確であり、その事をして、やはり憲法にある「戦力の不保持」という原則に反しているのではないかとも言われている。

当初は「警察予備隊」という名前だった。その後改名されて「自衛隊」となった。

ちなみに英語で「SelfDefenceForce」となり、初めは「自国を防衛する部隊」と言う意味で英訳したが、今では自国防衛軍と世界に理解されている。

■国防軍とは?詳細はわからいが・・・

自衛隊は、国内法(代表的なものは自衛隊法、イラク特措法、PKO法、災害救助法などなど)で束縛され、過去数十年間、国内出動すら様々条件(知事の要望など)で自由には活動できない単なる「行政機関」の位置づけであった。

自民党はそれをやめて、憲法を含む様々な国内法の束縛を緩和し、殆どは国際法を根拠に活動でき、国内法の制限をあまり受けることなく、国の内外を問わず、必要な地域に自由に行ったり、先制攻撃も可能とするような武装も持てる「国防軍」にすると言う事を考えており、そのために、現行も憲法の改正をことあるごとに言っているのだ。

たしかに、現象面だけ見れば、我が国と異なる政治勢力によって支配されたり、あるいはその戦闘が激しい国にいる軍人ではない日本人や協力外国人などを救出する時に、自衛隊は簡単には現地に行けないし、万が一に備えて武装することも国会の承認がいる。またホルムズ海峡や南シナ海等を通行する日本のための輸入品や原油を運ぶ船等を、武力を持って警備することも簡単にはできない。国内で定めている法律により規制されているからだ。さらに、国内で評価の高い災害救助も、その県知事からの依頼が無ければできない仕組みになっている。

一方で、軍備を持つ部隊が自国の領土以外で簡単に戦闘行為をすることへの歯止めになっているし、戦闘をせざるを得ない環境下での活躍を防いでいるので、「国の命令で、自国の人間の命を失わせてしまう」そんな覚悟はいらない。

そのことは、かの太平洋戦争での沢山の犠牲を導いた「国家の命令で戦争を始め、国家の命令で死を前提とした闘いをさせたこと、あるいは、死を命じたこと」に対する反省の精神であり、憲法の誕生後、脈々と引き継がれていることでもある。

■近年の国際社会の紛争の変化

今は世界の状況も少し変わり、単に「国家の戦力と国家の戦力が対決する戦争行為」そのものが国際法で禁止されているからか、戦争や平和の形が変わってきた。

1つは、従来の侵略戦争を地域紛争としてしまう方法である。例えばロシアが、ウクライナの東部クリミア地域で発生した親ロシア勢力による内戦に乗じて、ロシア軍を堂々と侵攻し、クリミアの一部を実行支配してしまった。

その過程で発生したロシアウクライナ紛争(略称:ウクライナ戦争)などである。

この場合の今までとの違いはロシアは宣戦布告をしなかったということと、ウクライナ市民の親ロシア勢に導かれたこと、そしてウクライナ在住の邦人救出を日本が直接はやれなかったことなどが言える。

アフガニスタンにおけるロシアの侵攻でも同じようなことが言える。

ただしこの場合はかつての冷戦の延長で、アメリカが、当時ロシアに反発したアフガニスタンの武装組織「タリバン」を、一時的に民兵として支援したことで、なんとかロシアを追い返したが、その結果としてアルカイダが生まれ、タリバンも武装化が大きくなり、アメリカの911テロに繋がっている。

2つ目は完全な国内の内戦である。今では一つの国の主たる思想は4種類あると言われている。アメリカ的資本主義思想、中国やロシア的社会主義思想、最近新しく表に出てきたが実は古くからあるイスラム教国的宗教原理主義思想、そして世界で最も多い民族原理主義思想。

その四つの思想が複雑に混合するのが、旧ソビエト連邦支配下にあった各共和国と、中東からアフリカにかけての一体である。

有名な紛争として旧ユーゴスラビアがわかりやすい。

この地区にはユーゴスラビア社会主義共和国連邦が成立する前から、セルビア人、クロアチア人、スロベニア人、アルバニア人、マケドニア人、その他数多くの民族がいて、ソビエトによりユーゴスラビア連邦として支配下に置かれたが、それでもの覇権争いは常にあり、たびたび小さな衝突を繰り返していた。しかしソビエト連邦が崩壊するとユーゴスラビア連邦の統括組織も崩壊し、構成していた各地域はそれぞれに独立権と支配領土を主張し始め、覇権争いは激しさを増し、民族争いとして各地で大量虐殺や大統領の暗殺などが起きたりなどし、やがてそれはユーゴスラビア紛争として各地で本格的で強大な武力衝突をする内戦が起こる。後ろにはそれぞれに、ロシアやアメリカ、EUになる前のEC、中国なども入り込んできて、高度な武器を使った激しく、敵が多数いる内戦状態に陥った。

なんとか停戦し、そして今ではスロベニア共和国、クロアチア共和国、マケドニア共和国、ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国、セルビア共和国、セルビア共和国ヴォイヴォディナ自治州、コソボ共和国、モンテネグロ共和国に分裂した。停戦から現在に至るまで、国連の治安部隊として多国籍軍が大量に駐留し、治安活動をしたが、多くの兵士が内戦の余韻に巻き込まれて死亡した。

3つ目がその国内の内戦の停戦後の治安維持、人道支援、医療支援、食糧支援、選挙や停戦状態の監視、道路等修復支援等といった、国連が中心になって行われる支援活動である。

実は近年は、この「内線の停戦調停」と「停戦後の平和維持活動」が国連の主な役割になっている。

原則として1つ目に上げた小規模地域の強烈な一国の侵略行為は、せいぜい国連で非難決議をし、あくまで対立する二国間で武力による紛争を起こさずに、平和裏に解決を促すだけである。

ただし強力な戦力を明確に持たない対立が起きたときには、あえて軍備を持ち込み両者の中間に入り、威力を誇示して内戦を抑えることもする。そして一方に武器支援や軍事指導をしていた外国軍の撤退を促したり、捕虜の平和的交換の調停をしたり、領土権や活動範囲の調停に入ったりする。そして国境などで監視をしたりもする。
これらを国連平和維持軍(PKF)と名付け、停戦合意が行われたあとの平和状態を維持するのが国連平和維持活動(PKO)である。前者は軍人だけ、後者は軍人のほかに文民も登用される。


このPKOは原則として武器所持の必要がなく、軍であれば、いわゆる修復や工作の専門部隊、医療部隊などが多く、また文民と言われる人は、警察官、医師、看護師、あるいは治水の技術者や井戸を掘る職人など、専門知識や技術のある「隊員ではない人達」を派遣することも多い。

■自衛隊とPKO(概略)

今までは、アメリカでさえも、自衛隊のことを理解しており、国際社会もその成り立ちやそれまでの経緯を理解しているために、自衛隊が日本の国内法に支配されることを知っている。

かつての日本は、自衛隊は日本の領土から出られないとして、こうした活動、或いはその前身となった活動では、もっぱら政府による資金援助をしていた。

90年代になると、日本が長年世界との貿易で高い利益を維持していると、アメリカや国連から、資金もいいが人意的な協力もして欲しいと言う声が出始める。当時の国際情勢からも欧米と並ぶ必要に迫られて、国連平和維持活動全般への協力をする方針が決定される。

ちょうどそのころ起こっていた、国連が派遣した加盟国とアメリカによる多国籍軍が、クウェートに武力侵攻しようとしたイラクを止めるために始めた戦争、通称・湾岸戦争がある。日本は参加国一の資金援助をしたが、自衛隊やその武力は全く出さなかった。それを「お金は出すけど血は流さない」と揶揄ったのだ。その悪意ある批難は世界中に流布され、国民の間にも批判の声が高まっていったのだ。

しかし憲法の壁は高く、当時、海部俊樹内閣で法案提出、しかし彼の政権時代の国会ではまとまらず、次の宮沢喜一内閣でようやくやや強引に法案が成立した。かの有名な「牛歩戦術」が話題となった国会だ。

その審議の過程で、内閣は解釈を変更し、自衛隊の主たる存在目的に、憲法前文にある「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。」ということを持ち出した。新たなる自衛隊の使命の根拠である。

成立した法律はPKO法と呼ばれ、あくまで海外には武器を携行しないと限定し、そのためにある程度の安全が確認された中で、様々な平和維持活動を行うとしたものだった。

しかし初参加となったカンボジア平和維持活動で、一緒に活動していた文民の日本人警察官が殺傷され、武器を持っていなかった自衛官がなんら対応できなかったことから、派遣のたびに少しづつ装備品は強化されていった。

PKOの活動の中にはPKFの活動とリンクしている例も多く、そこで国会は、具体的には、停戦や武装解除の監視、緩衝地帯での駐留や巡回、武器搬入出や検査、地雷などの収集と処分、停戦線設定、捕虜交換、の六項目を凍結した。これらは戦闘状態になる可能性がものすごく高い仕事だからだ。

しかし、実際に行われたPKOの現場では、こうしたことが他の活動の中に混在しており分離が難しく完全に独立しているわけではなく、内紛に巻き込まれたり、なかなか際どい瞬間も多く、批判が高まり、小泉内閣によってこの凍結は解除された。

その二年後、あのイラク戦争が起こった。

イラク戦争ではあくまで戦闘から離れた非戦闘地帯において人道支援と安全確保支援活動として、自衛隊が送られた。主に周辺地域のインフラ整備とJICA等の職員と施設の警備だ。後半期になると戦闘部隊に燃料等を輸送する空輸部隊も派遣された。

しかし、現地は徐々に思想対立による内戦状態が復活し始め、また輸送機も地対空ミサイルに狙われたりした。安全環境が維持できないと、2006年には地上部隊が、2009年には完全撤退した。その後数年たってアメリカ軍や多国籍軍も撤退したが、自衛隊員は延べ9310人を派遣し、現地で戦闘による死傷者は出なかったが、その後何十人と自殺者がでてしまい、紛争地参画の死の危険性がすぐ真横である環境で受けたPTSDの大きさが国会で騒がれたほどである。

なお、PKF項目の凍結解除を受けたとはいえ、実際に派遣するには国会の事前承認がいるので、殆どの戦闘可能性状態への派遣は否定されていき、南スーダンのように、先に派遣を決めておいてから、駆けつけ警護や宿営地警備等の戦闘可能性のある任務を閣議決定するという、卑怯なやり方をした例もあった。
やったのは安倍政権で、南スーダンはその状態で今なお派遣されて活動している。

例え法律的には色々緩和されたとはいえ、事前に安全でないと言う場所や事前に戦闘可能性が高い場所での活動と確認されないとなかなか国会で承認されず、国会で承認されていない活動はできないし、やらざるを得ないとか危険な状態に変化したら即撤退しなくてはならない。

国内法によって支配された行政機関としては、実は当たり前の価値観であり、警察官や消防官でもそのあたりはとても慎重である。危険性を弱めるためには膨大な人を連れて行って相手を圧倒する。

しかし自衛隊には限度がある。人数で制圧するような余裕はない。

自民党はこうした動きにくい制度をを変えたいのだ。

■なぜ自民党は国防軍にしたいのか

長々と自衛隊とPKO、PKFの関係を書いてきたが、自民党が国防軍にしたい理由は、実はほかにある。

それは、ズバリ言うと、この東アジアにおける覇権争いと、自国軍の独立である。

自衛隊という存在が憲法の中にいる限り、自衛隊には他国が脅威に思うような相当の戦力を堂々ともたせられない。従って憲法を変えようというのだ。憲法における「戦力の不保持」という要綱をなくしてしまいたいのだ。
大義名分は「この国際社会の中で国内法により正当な軍事力を持てないのは変だ」という主張である。わからなく無い面はあるが、じゃあ根本の憲法を変えて、自衛隊を軍にしようとは短絡すぎなくはないだろうか。

さらにその先にある東アジアの覇権とは、米国が今日本やグァムを拠点にして懸命に中露米として向き合っているもので、その役割を日本がやるという事である。まず膨大な装備の費用が必要である。さらにこの三国が対立するのは直接に核を持っていることで、日本は自国では持っていないので、アメリかに撃ってもらう事は変わらない。東アジアの覇権とは、その日米関係をしっかり持ちながら、中国や韓国、北朝鮮やロシアと、軍事力で対等な関係を持ち、国土を明確に主張し、さらにフィリピンやベトナムなど東南アジア地域での存在価値を示し、我々が平和と安定に寄与していると主張することである。おっと、これは、もしやかの大東亜共栄圏を彷彿とさせないだろうか?

むろん、国防軍になれば、国内法での戦闘制限や赴任地域制限はなくなり、行きたいところに行き、必要なら戦闘も辞さない集団になるということである。大きく絞るのは、いくつかの国際法にある積極的な戦争による紛争解決の禁止と軍法に基づく行動管理、そして人権の尊重ぐらいである。

従って国際貢献どころか、アジアなどの各地への駐留停留なども簡単にできてしまう。

これまで例え自衛隊が自由に動けなくても、必死に法律で守ってきた自衛隊員という行政職員を、兵隊としてしまい、ポンと戦いの中に置く。

そして国際法に基づき、駐留国の私権をはく奪したり、駐留国でようやく生まれようとしている治安などのシステムをも破壊できてしまう。

長引けば、基地として領土を奪い、治外法権の空間を作ることも可能だ。

様々な状況やあまりひどいことは彼らにも自制はあろう。従って、許されないとまでは厳しくは言えないが、あまり勧められることでもない気がする。
しかも、そうなると、武装の配備も強化しなくてはならないし、人員も必要になろう。一部の議員には、徴兵制の導入を堂々とうたうほどの人もいる。

こうしたことを最も喜ぶのは、実はその地域の方々ではなく、「アメリカ」なのだ。

日本の自衛隊が簡単にはやれないこうしたことを、駐留米軍が担っている。

太平洋艦隊を率いて東南アジアを巡回し、各地に小さな中継基地を持ち、そして日本国内には膨大な戦闘員を常駐させ、高度な武器も配備し、アジアの主要な軍事拠点としているからだ。その中で、日本の防衛も担っている。

しかし昨今は、アメリカでも「駐留経費」が膨らんでおり、国外基地は負担になっている。無論日本の基地は日本もかなり負担しているが、まだまだ負担が減る見込みはない。

しかし、自衛隊が国防軍になる事で、少しでもアジアにおける米軍の役割を担えれば、その分ラクになるので、国防軍をアメリカは手足のように使いたくなるのだ。

国防は大事であり、防衛力や軍事力も不要とは言わない。しかし、日本国のためにと大義名部員を強いて、アメリカの代わりになって各地に行き、米軍のような戦闘をし、日本国民の命を犠牲にする、そんな仕組みが本当に必要だろうか。本当の国際貢献になるのだろうか。

例えば近いところからで言えばアフガニスタンである。様々な情報を集めてやっているアメリカと違って、さほど情報がないので、アメリカの支配という既成事実を頼って安全を確保し、救出機を派遣したが、国防軍となってアメリカの手足のようになるという事は、このカブール空港を武器を使いタリバンと戦闘し、大量に集まってくる避難したいアフガニスタン人を制御し、地対空ミサイルで狙われるのを必死に回避して、何度も何度も・・・この役を担うのだ。

一方、自衛隊を国防軍にしたからって、果たして竹島の韓国の実効支配を解除するのに何年かかろう。また、北方領土のロシアの主権返還に何年かかろう。国防軍の存在をにおわしたところで、もはや一般人の生活すら始まるほどの実効支配状態に軍事力で踏み込めば、国際社会的には侵略とみなされる。

これはロシアのクリミア併合が、クリミア半島は元々ロシアの観光地であり飛び地としての領土で、それをソビエト連邦時代はウクライナ共和国に管理させていたものだが、ソビエトの崩壊により、各構成国間の国境が強化され、ウクライナの国境内に存在するクリミア半島は、ウクライナ側がロシア共和国の領土に認めず、ウクライナの領土として実効支配しいた。

つまり北方領土などと似たような位置づけである。そこでロシア軍は強大な自国戦闘力をもってウクライナに侵攻し、実力をもってクリミア地区を奪還し、強引にクリミアをロシアに併合したのだ。

しかし国際社会からは「ロシアによる侵略」とされた。今でもロシアの支配下にあると定期的に抗議文を決議している。そうしたことからも、憲法改正から含めたら、国際的に認められる形で北方領土や竹島が返還されるのはどれだけ先のことやらという感じである。無論、武力による強引な奪還は批難されるだけであるし、尖閣諸島の対立も薄らぐことはなく、せいぜい尖閣を含め、壱岐対馬や沖縄の離島など、日本の周辺島しょ部の軍事的侵略行為を防ぐ効果が少し高くなるぐらいであろう。

つまり核ミサイルでも持たなければ、自衛隊と国防軍では、その存在感効果は変わらないという事である。日本が核保有国?そういや何年か前に北朝鮮のミサイルに過敏に反応してそんな議論も出ましたっけね。

核はともかく、自衛隊のように「〇〇はしてはならない」ががっちり取り囲んでいる組織で無くなった「軍」は、高度化していく他国の軍備に対応して、どんどん予算は膨らみ、軍拡していくことは必至で、津波が来るから景色も見えなくなるほど高い壁を立てるみたいなもので、その壁より高い津波が来たら壁はより高くする。その繰り返しのような世界に、大した足かせも無く飛び込むのだ。唯一の頼みは「自制する理性心」だけになってしまう。

他に方法が全く無いのか?と疑いたくなる。

■自衛隊を国立災害救助隊にしてはどうか?

自衛隊を世界各地で貢献し、役割を花開かせるためには、自衛隊に長所を生かすことが大事である。

自衛隊は、国内の活動で最も存在価値を示すのが、災害救助活動だ。その能力は今回のコロナという事態でもかなり活かされている。

コロナの場合の中心は医系技官という、言わば自衛隊内の医師だが、自然災害の救出作業などでは、けして他の自衛隊員も活躍している。

装備も素晴らしく、民間では簡単に持てない様々な重機や簡易に風呂や診療施設、宿舎などを建築する専用の車やシステム、そしてそこに毎日訓練で積み重ねたノウハウが乗っかる。リーダーの指示も明確に伝わり、一つ一つの行動が機敏で、かつ、一般人にはとても親切だ。

このことは東日本大震災や九州豪雨を始め、実は世界の災害地などでも災害派遣されたことや、災害技術の伝授によって、各地で評価は高い。

従って、より多くの医療教育を整備し、医療知見の広い隊員をふやし、国内はもちろん、国外の災害地に医療から救出作業までできる高度で総合的な救援部隊として積極的に派遣するのだ。必要ならば一部は赤十字などと連携してもいい。

人は戦いに参加し一緒に戦った他国の兵よりも、戦いの後に受けた医療や看護の人達に深く感謝をしてしまうものなんだという人も多い。

つまり、それを日本の基本戦略にし、部隊のノウハウ強化と機動性を強化し、必要性と存在価値を国際的に高め、日本の外交の力にするのだ。
無論、必要ならば戦闘もしよう。今でも装備はあるし訓練は日々やっている。従って従来の国防としての自衛隊としての性格はしっかりと残す。しかし、本来が救助隊ということであれば、あくまで表向きは国際的な救助をする集団であり、自ずと適地侵略の戦争をする集団とは見られないだろう。またそんな外装をしている国を、国際社会の目を気にしないで平気で攻めてくる国も少なかろう。

救助隊の攻撃装備も、必要最低限になるし、その攻撃への周辺の賛同も高いであろう。
こうして、ある意味、世界に媚びを売るのだ。媚びを売ってむしろ向こうから「戦闘」を求めてくるのではなく「人道支援」を求めてくるようになればいい。

大きな戦争の敗戦国に残るものは、

①多大なる犠牲の事実と反省

②戦争前体制への反省と贖罪

③新体制の明確な反戦争へ主張保持とその中での国際貢献 

日本の外壁に存在するのが、単なる戦闘集団と武力ではなく、救助を前面にした人命優先の部隊であれば、例え武装していたとしても、大戦の敗戦から学んだ進歩的な国家感を持つとして、勝戦国にも自慢できるのではないかと思う。

国立災害救助隊「Self-Defence and National-Disaster relief Force」通称:SDNDF

とても日本人の性格にあってると私は思うが。

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