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物語を創る意味

 物語は人類の偉大な発明である。イスラエルの歴史学者であるユヴァル・ノア・ハラリ氏が『サピエンス全史』で指摘するように、人類は虚構を信ずる能力を以てこの社会を維持してきたと思う。今回は、そんな「物語」と私を巡る歴史をつづめて話しながら、物語を創る意味を見出していきたい。

実用書は必ずしも即効薬ならず
基本的にあらゆることは、①「理解」し、②「納得」して、③「習慣」とすることで、日常に溶け込んでゆく。①「理解」についてはある程度の読解力があれば難しいことではないし、③「習慣」については実践あるのみだと思うから、今回の関心事は②「納得」である。
 実用書に書いてある事柄をそのまま納得することは、時に難しい。これまでの自分の習慣や考えを否定するものであれば少なからず抵抗感を覚えるだろう。ここを難なく乗り越えられる人もいるだろうが、私はそうではなかった。
 そんなとき、私のそばにはいつでも物語があった。私の中で物語は、②「納得」を助ける手段として機能した。その実例を振り返ってみたい。

『きみの友だち』が「私1.0」のはじまり
 私が読書という行為を明確に意識したのは小学生の頃だと思う。当時は中学受験を控えていて、国語が大の苦手だった私は、文章への不慣れが最大の原因と推定して、語彙の学習と並行しながら多くの小説に触れてみた。その中で初めて好きだと言えた小説が『きみの友だち』(重松 清)だった。主人公は様々なバックグラウンドを持つ複数の中学生であり、傍から見て完璧な能力を発揮する彼も、常に潤滑油としてクラス仲を取り持つ彼女も、それぞれの悩みを抱えて落ち込んでいる。近しい年代の子たちの心の動きが丹念に描かれることで、悩んでいるのは自分だけではないのだと救われた気がした。友達をたくさん作らず、大切な友達が一人だけいればそれでいい、と豪語する恵美ちゃんがやけにかっこよく見えたものだ。

『下町ロケット』が「私 2.0」のはじまり
 時は移ろい、大学院修士1年の冬。毎日半日以上の時間を研究活動に当ててきた結果、運良く研究成果を論文発表する機会に恵まれた。論文を雑誌社に投稿した後、論文リバイスとして相当量の追加実験を要求された。当時は就職活動にも本腰を入れようとしており、余裕がなく研究になかなか身が入らない時期であった。
 そんなある日、父親の本棚にあった『下町ロケット』(池井戸 潤)を手に取り、通学中の電車内で読み始めることにした。大企業の帝国重工に対して、町工場の佃製作所が翻弄されながらも、自分たちの意思を貫き通していく。佃航平は町工場の社長でありながら、経営者よりも技術者としての矜持が高く、大企業への特許売却に抵抗する姿勢が頼もしい。自分も負けじとリバイスに励もうと決心したのである。ここで気づいたのは、「技術者として折れずに本意を全うする」ことを理解はしていたけれど、『下町ロケット』を読むことで深く納得できたこと。無事に論文は受理されたが、結果よりもむしろこの過程が今の私を成長させてくれたと断言できる。

物語の創作は合理的な営為だ
 すべてが加速化した現代社会に於いて、人類は多くを覚えることよりも、考えて意思を決定することが重要になると考えているが、タイムパフォーマンス(タイパ)という言葉が普遍化した今、思考よりも記憶に重点が置かれた社会に向かっている気がしてならないのである。もちろん一人の自立した人間として、常に手っ取り早く知識をアップデートしていかなければならない、という思いは依然としてあるが、断片的な知識を有機的に繋げることによって初めて、思考や感性の枠組みが更新される。
 この「断片的な知識を有機的に繋げる」行為の極限が「物語の創作」であると思う。良質な物語は、教訓や著者の主張を要所要所に散りばめながらも、登場人物や出来事の論理的な一貫性を保っており、頭ごなしに自分の言いたいことを押し付けるのではなく、自然と納得させる力を持っている。一見非合理的に思えるかもしれない物語創作は、私にとっては極めて合理的な営為に思えるのだ。

終わりに
 物語は様々な形態を取る。小説、映画、絵画、写真、演劇……その中でも私はとりわけ小説に影響を受けてきたのだなあ、と振り返る。芸術に対する私の考え方もいつか話せたらいいなと思う。

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