"ぶんぞさん”のこと
私の大切な家族、文蔵。
通常の呼び名は「ぶん」。
SNSでは「ぶんぞさん」として、たくさんの方にかわいがっていただきました。
数年前から持病を得て、何度も死にかけて、何度も帰ってきてくれて、でも2020年8月15日、朝3時30分ごろ、とうとう逝きました。
彼の20歳の誕生日の朝。律儀すぎる。
室内飼いの猫の平均寿命は15年前後と言われています。
私はつねづね「20歳を超えてネコマタになるんだよ。20年生きれば、しっぽが二つに割れて、妖怪ネコマタになるからね。ネコマタになってもかわいがるからね」と言い聞かせてきました。
15歳を超えてから、腎臓病で死にかけ、糖尿からケトアシドーシスを起こして死にかけ、そのたびに長期入院と先端医療で乗り越えてきました。
1日2回のインシュリン注射が1日も欠かせなくなり、さらに週に1度の通院点滴、それで追いつかず2日に1度の自家点滴に。
今年になってから、7月頭に痙攣発作を起こし、それが8月12日に再発。長いこと診ていただいている先生も、もう入院をすすめません。私が家で看取る、って言ったから。
最期のとき
ずいぶん前から覚悟は決めてきたつもりだけど、ぶんが逝ってしまうことを考えるのが怖くて。
私は万事用意周到な方なのですが、ぶんの旅立ちの準備は怖くてできなかったです。
ペットショップのペット火葬のポスターからも目をそらし、動物が死んじゃう系のお話を一切目の端に入れないようにしてきました。
幸か不幸か、菅平に行くために連休を取っていたので、仕事は15日までありません。ずっと一緒にいられる。
それでも、どんどん軽くなっていく体。12日に痙攣を起こしてからは、意識もはっきりせず、歩くこともできなくなりました。
東京は夜になっても30℃を下らない猛暑。私にとっては暑いけど、ぶんが快適なはずの28℃にエアコンを固定して、掘りごたつの横のすきまで添い寝をしました。
30分ごとに細い声で鳴きます。少し抱いてやって、水を飲ませて、おしめを確認して、寝返りを打たせて、ふとんをくるっと回していつも顔がこちらをむいているようにして。最後の2日はそうやって過ごしました。
8月15日の土曜はどうしても外せない仕事です。朝まだ暗いうちに目が覚めました。そういえばまだぶんに呼ばれていない。声がほとんどでなくたって、ぶんが鳴けばわたしは分かったのに。
紙のように軽くなった体を抱き上げました。まだ温かかった。でも、鼓動が聞こえなくて。
オムツだけ、はずしました。最後少しだけ湿っているくらいで、おしりもきれいでした。
どのくらいそうしていたか覚えていないけど、思い立って抱いたまま2階に上がりました。その日オットも仕事だったけど、起床時間よりだいぶ前です。
「息してない」
ベッドから起き上がったオットは、私からぶんのからだを受け取ると
「まだ温かい」
と言いました。私もそう思ったんだよ。
このまま仕事に行ったら、からだが腐ってしまうかもしれない。冷蔵庫に入れる?って話もしたんですが、出勤前に庭に埋めることにしました。
オットは家の墓地の隅にお墓を作ろうか、とも思ったようですが、ぶんにとっては知らない場所だし、私たちから離れるのをきっと嫌がるから。いつでも見えるところにしよう、ってふたりで決めました。
最後にシャワーを浴びたときにも使った、青い花の柄のバスタオルでぶんをくるみました。ばあちゃんを起こしたら、転びそうになりながら走ってきた。ばあちゃんは88歳だから、走ったりしちゃいけないのに。
庭の桂の木の下。1m以上掘らないと、悪い動物がきて掘り返すかもしれないから。オットは汗だくでがんばってくれて、私は蚊取り線香や照明を用意したり、あとはまだ暗い空の月を眺めていました。三日月くらいの。月の西側に、まだオリオンが出ているのが見えました。
1日で一番涼しい時間に穴を掘るようにしてくれたの。
仕事に行くのに心配しなくていいようにしてくれたの。
ばあちゃんひとりの時に逝ったら、困るって思ったの。
ずっと死なないで、って思ってたけど、私たちに何の迷惑もかけずに逝かなくたっていいのに。
お盆で帰ってきているはずのじいちゃんに、連れて行かないでね、ってお願いしたのに。
いろんなことは頭を巡るけど、あまり涙は出ませんでした。
ちゃんとした大人みたいに、ちゃんと会社に行って、ちゃんと仕事をしました。でも、一人になると涙が出てくるんだなあ…
ただ、ここにいてほしくて。
ぶんがどこにもいないことが、ただ辛くて。
手書きのアルバム
ぶんぞさんが私のところにやってきた20年前。手書きのアルバムを作ってました。子猫だった頃のデータがないので、スキャンしたものです。
漢字で書くと文蔵です。
もらわれてきたとき、とにかくペンにじゃれてじゃれて、文房具が好きなんだね、ってことで文蔵と名付けました。
ぶん、って呼ぶほかに「ぬん」とも呼んでました。機嫌が悪くても、しましまの長い美しい尻尾をふって返事をしてくれました。
私には、世界一かわいい猫だったけど、正直言えばぶん以外の猫がそんなにかわいいわけないでしょ、くらいの気持ちでした。
保護主さんのおうちで、兄弟猫のハチワレくん。
このピンクのタオルを一緒にいただいてきました。
成猫になった頃。
そういえばぶんのお母さん猫は、ものすごくワイルドな白猫さんでした。
次の子をしあわせにする
ぶんが旅立って1週間たった週末、主治医の先生にごあいさつに伺いました。先生とこの病院のおかげで、5~6年は長く一緒にいることができたし、どうしてもお伝えしたくて。
澤穂希ちゃんにそっくりな主治医の先生は、「体重が戻って、おかあさんといっしょに喜んだりしましたねえ…」と一緒に振り返ってくださいました。
また、次の保護猫さんがきたら、お世話になりますね。そう約束して病院をあとにしました。
ぶんはウチの子になって幸せだったのか、どうしても考えてしまうけど、子どものいない私たちの、重すぎる愛情をいっぱいに受けて、痛かったりひもじかったりせず、いつも誰かがいて、寂しくなくいられたのかな。
これから私たちができることは、また保護猫さんの里親になって、不幸になりそうな子をウチの子として、たくさん幸せにすること。
ぶんぞさんがいない穴を、彼or彼女が埋めることはできないかもしれないけど、その子と一緒に新しい山をつくっていけたらいいと思います。
あっちの世界で会えるのを楽しみに、私たちもゆっくり齢をとっていくので、ゆっくり待っててね。
日常の写真
Google Photoに保存されたぶんの写真は3万点以上あります。2010年くらいからの写真はオットに抱かれているものが多いです。
おわりに
海外にいる中学からの親友の佳子に、まだこのことを知らせてなくて。
彼女はきっととても悲しむけど、佳子に話すって共感してくれるからこそ辛くて無理で…すぐに言えなくてごめん。
先ほど出来上がってきた墓標。表札の業者さんに天然石で作っていただきました。
佳子への報告を兼ねて、このnoteを書きました。
長々と個人的なことを読んで下さり、ありがとうございました。
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