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工藤工の成分と行動原理


▶︎いつも「何してるヒトかわからない」と言われる。

僕は公私を問わずよく人と会う。お酒もほどほどにいただくし、酒抜きの食事だけの時もある。最近はもっぱらランチミーティングが主戦場だ。

僕は夜が早いのでお酒が入るとたちまち眠くなってしまう。8時になると俄然眠くなる。頭も回らない。そんな時間に会食してもムダにしかならない。

だからランチタイムに会うのが一番都合がいい。

仕事以外でもよく人に会うのだが、何度か会ううちに打ち解けやがて仲良くなるときが来る。そんなときに必ず言われることがある。「お仕事は何されてるんでしたっけ?」

どうも僕は得体が知れないらしい。自分でも「私はこんなことしてます」なんてアピールするタイプじゃない。

僕は自分のことはあまり話さないらしい。子供の時からそう言われてた。

だから必然的に相手の話をよく聞くようになる。そして、聞き上手と言われるようになる。

でも実は人の話はあまり聞いていない。相づちは打つし笑いのつぼも外さないのだが、結局ほとんど聞いてない。だから大抵の場合、次に会ったときにトンチンカンな受け答えになる。

考えてみれば子供の頃から他人の話は右から左、だ。よーく聞こうと思って構えてみても、やっぱり他のことを考えてたりする。

子供の上の空はすぐばれる。だから親父によく張り飛ばされていた。「人の話はちゃんと聞け!」バシッ!。

▶︎ヒトは「好き嫌い」で選ばず、「合う合わない」で選ぶ

僕は人によく会うのだが、仲良くできるかどうか、交友関係が長続きするかしないかは合ってすぐにわかる。お付き合いの基準がちゃんとあるからだ。

お付き合いの基準は「好き嫌い」ではなく「合うか合わないか」。では「合う合わない」の基準はなにか?僕は「波長」だと思っている。

ラジオと一緒だ。発信電波にピッタリチューニングが合えばちゃんと聞こえるがちょっとでもずれるとノイズしか聞こえない。

「波長」が合う人とは初めて会った気がしないし、変に気を遣う必要もない。一緒にいて心地いいのだ。

だから僕は人に対してあまり好き嫌いを決めつけない。決めつける必要がないのだ。合う人とは放っておいても合うものだから。

好き嫌いを決めつけないことで変なストレスを感じることもない。

仕事でも合わない人とはどこまでいっても合わないものだ。「波長」の合う人とは多くを語らずともなんとなくわかり合えて仕事がはかどる。

僕はこんな人を探しながら仕事をしているのかもしれない。と、最近思う。

▶︎人の顔を覚えるのはすごく得意なのだが

僕は名前を覚えるのが苦手だ。でも顔はしっかり覚えることができる。

たとえば街角で「この人どっかで会ったことあるけど誰だったかな?」ということがよくある。

いくら考えてもどこで会ったのか思い出せないことが多い。

しばらくして新宿伊勢丹の惣菜屋さんで買い物をしてたら、「あっ、このおばちゃんだ」なんてことはよくある。

で名札を見ても一時間後には名前は忘れてる。

映画を見てても「あれっ、このヒト前に見た!何の映画だっけ」となる。ひとたび気になると映画どころではなくなる。

すかさずスマホを手に取り調べまくる。そしてひととおりの情報を得てはじめて落ち着いて元の映画に戻ることができる。

考えてみればなんともめんどくさい性格、というか性質だ。

▶︎メニューだって写真が入ってないと困る

メニューに絵がないと決めるのにめちゃくちゃ時間がかかるので困る。

ファミレスのように写真がふんだんに使われている場合、オーダーは瞬速で決まる。

しかし、文字だけのメニューだと最後までめくってまた最初に戻って、を何度も繰り返すことになりなかなか決められない。

居酒屋の短冊メニューなんてほんとに時間がかかる。だから定番料理ばっかり頼むことになる。なので文字メニューの場合は最初からお店の人に聞く気満々でメニューはあまり見ない。

とにかく絵がないとわからない。というかことがはかどらない。でも文字は文字で大好きだ。本はかなりの数読んできたし、作文もそれなりにできる。

小説なんかはワインの「ラベル買い」ならぬ「表紙買い」をしてしまうこともよくある。推薦文なんかを読んでも選ぶのに時間がかかる。そんなときは絵で選ぶのが手っ取り早い。

▶︎座右の銘は「これでいいのだ」。


言わずと知れた、『バカボンのパパ』の名言である。

いいことも悪いことも、厳しい結果であっても想定外の結果であっても、すべてを受け入れることのできるオールマイティなことば。

因果がどうだとかを考えることも、これでよかったのかと悩むことも、後悔することも必要ない。

まずは一度受け入れてからどうするか考える。

何があってもまずは「これでいいのだ」と心で唱える。心が落ち着く。
さあ次はどうする?


▶︎判断するときの基準は「原理原則」と、ものごとの「道理」。

僕はあらゆることを「原理原則」と「道理」で判断する。

どんな人にも言動の源となる「原理原則」がある。「プリンシプル」なんて呼び方もあるが、僕は「原理原則」という言葉の響きが好きだし、一言でわかりやすくていい。


「原理原則」と「道理」がわかったら、次は「原理原則」と「道理」を元に物事の成り行きを「推定」し、結果を「仮説」する。

もうひとつ「一事が万事」という、これまた「大原則」フィルターがある。

ヘッドハンティングされたヒトはまたヘッドハンティングされて出て行く。
不義理をするヒトは今回だけということはない。またやる。
小さいミスを他人のせいにするヒトは必ず大きいミスも他人のせいにする。

このようにヒトは基本的に「一事が万事」で行動するものだ。
なぜならヒトは自分自身の「原理原則」に従って動いているから。
その「原理原則」が変わらない限り変化はないのだ。


だから「仮説」は最後に「一事が万事」フィルターを通して完成する。

こうして「仮説」ができあがったら、すべきことを決め、行動に移す。

日常的に僕の頭の中では、これらすべての行程を、「感じる」がごとく一瞬の間に並行処理しているみたいだ。

だから僕の日常生活ではどうしても「仮説」と「検証」というプロセスが多くなる。

僕にとって「仮説」は重要なファクターなのだ。

そして、「仮説」は楽しい。

「仮説検証」マニア。それが僕の「原理原則」なのだ。


▶︎いろんなヒトの末路が大きな学びとなり、今の「原理原則」を形作っている

社会に出て早30年、以上経つ。起業しては失敗しの数々。だけでなく、儲かってるのにだまされて売却したりもした。
そして僕が関わったり、通り過ぎていったりした人たちからの大いなる学びが今の「原理原則」を形成している。

だから僕の「原理原則」は多くの人の血と汗の結晶でできている貴重なものなのだ。

▶︎三十年あまりの起業人生で見た個性的?な紳士たち。

バブルに踊らされていただけなのに、自分の実力と勘違いして地に落ちた不動産ブローカーたち。一度食いついたら絶対に離さない反社(バブルの頃は反社会勢力などという概念はなかったの)の猛者たち。バブル期最後のジョーカーをひかされた不動産業者たち。国土法違反で逮捕された面々。あちこちに借金しまくってドロンした金ぴかスーツの紳士たち。欠けた指の本数を自慢し合うあちらの世界の面々。親を脅して風俗店の運転資金を捻出し、風俗嬢たちに食い物にされて破産したお坊ちゃま。せっかく日本で起業したのに高い通信費をごまかそうとして詐欺罪で逮捕され、執行猶予中に自国へ帰国してしまった外国人。わずか数百万円の銀行負債で自己破産してしまった中小企業経営者。独立した途端あちこちから怪しい話を持ちかけられ、いちいち相手にしてたら軍資金が底をついてしまった脱サラおじさん。

などなどやらかしてくれた面々は数知れず見てきた。

自分の失敗はかわいいものだと自我納得。


こんな30年以上の企業経営の経験を書き残してみたり、「仮説検証」マニアな視点から眺めて思いついた仮説的社会の窓を文章にしてみようと思いたったがなかなか筆が進まず、これが最後の宣戦布告と言い聞かせて書き始めた今日この頃。

▶︎苦手なのは狭いところ

僕は狭いところが苦手。怖い。
幼少期に体験した何かが影響しているのだろうがそれがなんだかはわからない。
ただ、小さい頃風呂場にハマって押し開きのドアを懸命に引いて「ドアが開かない」とパニクって大騒ぎしたのは覚えているから原因はもっと小さい頃にあるのだろう。

中には電車にも乗れないという人がいるが僕はそこまでではない。が地下鉄に乗るのは毎回命懸けだ。
トンネルの途中で止まったりしようものなら鼓動が早くなり、冷や汗がドッと湧き出てくる。前がつかえてるだけだと分かっていても不安が湧いてくる。

停車が怖いという点では地下鉄だけではなく、地上線もダメな時がある。それは満員電車。
ギューギュー詰め状態だと前がつかえて止まっただけでヤバい、と思う。血の気が引くのがわかるのだ。もって3分だ。原因がわかっててもダメ。
あと苦手なのがエレベーター。
エレベーターも毎回命懸けだ。
だから自宅もオフィスも低層階にかぎる。問題は取引先だ。高層ビルのクライアントには覚悟をもって訪問しなければならない。
デパートのエレベーターなんかに間違って乗ってしまったら大変。子供が騒いでジャンプなんかしようモノなら僕の顔からは急に血の気が引いていくのがわかるだろう。内心は「やめろ、刺激を与えるんじゃない!ガキが!」だ。

あと不思議なことに大海原もダメ。
広すぎて逆に孤独を感じ、閉所と同じ感覚に陥る。

要は外界と閉ざされ、日常生活に戻れないと考えるとパニクるらしい。

▶︎海は怖い。だからかも知らないが僕は山派の人間だ。

聞くと山派と海派に別れる。僕は山派だ。山は落ち着く。
海は波の音がうるさい、と感じてしまう。たまにいくのはいいのだが、頻繁には行きたいと思わない。

▶︎僕の今現在の肩書は何だろう?と考えてみる。


「瞑走野郎」「ストックビジネスマニア」「柔らかネゴシエイター」「コスト削減マニア」「太陽光成金」「天然宝石伝道師」「宇宙人倶楽部世話人」「マイナースポーツ愛好家」「起業アドバイザー」「経営指南野郎」「オニギリスト」ざっとこんなとこだろうか。

肩書は日々月々アップデートするからその都度書き足したり減らしたりしていく計画。

これだから「あなたの仕事は何でしたっけ?」となるんだね、ということにここで気がついた。。。

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