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パート4 演技の為のカレーライス脚本解釈術(カレーライス脚本解釈術12)

パート4 解釈の先の話を少しだけ

 作品の完成形が「カレーライス」である限り、自分1人で自分の役を研究するときも、他の要素を想定しながら実験をしておくべきだと思います。例えルーの役(主役)をもらっても他の具材を無視する理由にはなりません。

 これまでの作業は自分の役の適切な材料を揃える為でした。それが演技の為の解釈です。何か一つでも得るものはありましたか。ここまで来て、こんなの簡単だ、そんな事はもうやっている、と思う人いると思います。が、とにかく、材料の揃え方が分かりました。今、あなたはスタート地点に立って、ファンファーレが鳴っとります。今、やっと巷の本の「表紙」にたどり着いたのです。バッグに必要な材料を詰めて、旅に出発する準備が整ったのです。

 あなたが最初に作ってくれたはずの「警察官1」改めて、今、どんな演技を作ってみるでしょう。想像して見てください。作業量の感覚はどれほど増えましたか。自由になれそうですか。何か、小さくても、読む前には見えなかった何かが見えている事を祈るばかりです。

 パート1で挙げた解釈から得られる4つの事、改めて振り返ってください。その可能性を感じますか。

 作品を作る事を家づくりに例えると、解釈をする事は家の基礎部分を作る事、と言えます。真面目に家を作る注文住宅のスケジュールで言えば、基礎が完成するまでに建設期間の4分の1近く、設計を含めた全体のスケジュールを12カ月とすると、基礎工事の完了予定は7カ月の終わりに設定されています。基礎の大切さがわかりますよね。

 でも、考えてみてください。家の基礎は外観から見えるか見えないかの、地味なグレーのあれです。(分からない方、町を歩いて、いかに地味か眺めて見てください。)外見からほとんど感じられないからこそ、軽視されやすいからこそ、その重要度をしつこく述べてきました。

 もう一つ、阪神・淡路大震災の時に起きた現象からその後、義務付けされた金物をご存じですか。「ホールダウン金物」と呼ばれる金具です。地震などによる揺れが起こった際に、基礎から柱が土台や梁から抜けないように繋ぐ金物のことです。震災時、ホールダウン金物を使用していた住宅の倒壊がほとんどなかった、と専門家の間で考えられているそうです。お家が基礎から離れて倒壊するパターンが多かったのですね。この金具こそ全く表から見えませんが要です。解釈をきっちりして、演技を作る技術があっても、二つを根拠を持ってがっちり繋いでいなければ意味がありません。私が示した手順で言えば、物語解釈が「基礎」でキャラクター解釈が「ホールダウン金物」みたいなものかもしれません

 でも、やはり、解釈は重要な基礎部ではあっても、たったの始まりにしかすぎないのです。いよいよ、これからなのです。

 「はじめに」で触れたように、役者の何より大きな仕事は、自分を開いた、自分を使った演技をする事です。

 例えば、考え事をしていてふいに話しかけられたり、我慢して人の話を聞いていたり、なんでもないシーンが本物にしか見えない時、ありますね。

 そんな時、観客として、その役者の人に感謝しかありません。あなたの大事なものを消耗してくれてありがとう、と感じます。達成感もあるかもしれませんが、傷んでもいると思います。そしてそれを見られる事は特に日本のドラマでは、けっこう、稀です。逆に言えばできる人が少ないので、できる人は早めに売れて行き、長期的に活躍しています。(長期的に活躍している役者の人が『開いている』とはいいません)そして多くの人に目指してほしい所でもあります。

 ここから先、演技構成、試行錯誤の作業も終えたら、実際の食材を皆で持ち寄って調理してみるのがリハーサルの場。想定外の科学反応が楽しみです。最初はトンデモない味になるかもしれません。でも各々の役者の中で広く深い準備ができていれば調整し合っておいしいカレーライスができるはずです。

 これまで何度も触れてきたように演技作りについては山ほど本がありますが、最後に、出すぎた事と自覚しつつ、私が考える、演技を作る際、忘れないで欲しい事に触れておきます。

〇演技中は「今」を生きないで

 私には、うまくない役者さん達の多くは「今」を生きているように見えます。作品を細切れにして、「今だけ」しか生きていないように見えるのです。一番ひどい時は「中の人」が今まさに、今を生きているなあ、なんて感じる時もあります。そうなると作品鑑賞は失敗です。

 言うまでもなく、人生において「今」を生きる事は大事です。あのお釈迦様でさえ、究極のそれを目指したわけです。なぜお釈迦様がわざわざ「今」を生きる事を説いたか。

 それは、人間は「今」を生きる事がめちゃくちゃ難しいからですね人間は生理現象を除いたほとんどの時間「今」を生きる事ができない。今を生きる為に「マインドフルネス」やら瞑想やら特殊な技術が必要です。「今」何も起きてなくても絶望し続けて、自死さえ選びます。そういう脳の作りです。

 修業して、やっと「今」を生きる事ができる。

  例えば長年連れ添った夫婦。夫がちょっといい事してくれても、過去の悪行を覚えていて全然喜べない。ひどい行いを目の前にしても、その犯人がそもそも究極の善人と知っていれば、腹も立たずにむしろその人が心配になる。そういう面倒くさいのが人間です。

 だから「今」あるいは「短い時間」しか感じられない演技はなんだか人間臭くない、嘘臭いわけです。そんな人間の脳みそのクセを意識する事は演技に向き合う時に非常に大切だと思います。必ず、大きな枠、時間からとらえる事が必要なのです。

 一方で、確かに人間は「今」を生きている人に魅かれます。

 例えば、厳密に「今、ここ」と究極に短くすると、瞑想の世界ですが、区切られた時間の「今」を生きるのは見たくなります。例えばスポーツやポルノや狩りの世界なんて、短い「時間」を生きています。記録作品でれば「本物」というだけで見ていられます。

 映画やドラマの中の勝負や愛のシーンは、それまでの紆余曲折があっての到達点として扱われています。あんなに努力してそこに立っている。あんなにもうダメだと思ったのに、そうなっている、そこに意味がある。だからやっぱり一連に繋がった中の「今」を生きていなければならないのです。

 演技を組み立てる時、その「今」を生きたくても生きられない人間臭さの事をいつも思いだしてください。演技の中で「今」を生きるのは特別な時だけだと、忘れないで欲しい。

〇「笑い」を大切に

 日常、皆さんはどれほど笑っているか気にしていますか。作り笑いも含めて。そして周りも観察してみてください。「笑い」には本当にたくさんの感情が含まれています。そして、残念な事に演技で見る笑いはたいてい不自然です。自分がいつ笑うのか、どういう構造で笑っているのか、作り笑いをしているのか、きちんと分かっていてください。私はドラマの中で見たリアルな爆笑、ついこぼれてしまう笑みをよく覚えています。ほとんど見る事ができないから心に残ります。

 完全に個人的な考えとして。笑いが「本物」になれば、あらゆる感情表現も持ち上がる、演技の勘所だと思っています。

〇本気の人はあんまりいない

 こんな事を書くと、あんたが小物だから相応の人としか会ってないんでしょ、と、思うと思います。それ、その通りなんですが、「社会人」になって20年以上たちましたから、言います。テレビ業界、映画業界だけでなく、脚本を書く傍ら、病院相手の製造業や、省庁相手のコンサルティング会社でもパートで働きました。上司は高卒から東大、同僚は中卒から一級建築士からアメリカの大学を卒業した博士まで、本当に色々な人達と仕事をする事が出来ました。

 学歴と時給、プロジェクトの予算が5万円から数億円プロジェクトまで離れていても、はっきりと違いが見られるのはいじめの内容ぐらいです。想像の通り、学歴の高い人達は精神的で陰湿ないじめ、学歴の低い人達は本当にドラマみたいに手が出ます。(学歴があっても殴っていたのははテレビ局で東大卒のプロデューサーくらいしか思い出せない)仕事に対する姿勢はたいして変わりませんでした。どちらの世界にも突然失踪した人がいました。

 学歴、賃金全く問わず、全てまとめて感じる事は自分が青年の頃、漠然と社会に対して想像していた「本気でやっている人の割合」は間違っていました。極少数でした。目の当たりにして初めて自分が「社会」に知らないうちに期待していた事に気がつきました。高学歴、時給10万円を超える方々の仕事も「7割の精度」と自分で言っていて驚きました。4cmにもなる報告書の3割間違っていていんですか、という話です。皆それぞれの事情があって力をセーブします。もちろん、皆、仕事だけで生きているわけではありません。家族や自分の健康含め、守るべき対象をたくさん抱えます。その事情を勘案しても、それにしても、世界のぱっとしない空気はこういうところから染み出してるのか、とさえ感じます。確かに極めれば自滅しますが、そういう問題のずっと以前にいます。

 また、自分が力をセーブするだけでなく、仕事から趣味の世界まで足を引っ張る人達が存在します。足を引っ張っているとは露とも知らないまま。難しいよ、できるわけない、と初めから決めつける人達がいます。私の人生でも「いらん助言」を数々もらってきました。善悪、白黒つけるのはなかなか難しい事ですが、勇気や意欲を削ぐ事は数少ない完全悪の一つだと思っています。自分が意気込んでいる時程「いらん助言」は近づいてくるものだし、自分が信頼する人ほど「意欲を削ぐ」パワーが強い構図も、「やさしさ」を発端としているところも全てが厄介です。でも。
 そんな「やさしさ」に負けず、世の空気に流されず、何よりも自分が本気でやる覚悟が大切なんだと思います。自分が作るものに、絶妙なバランスを保ちながら誠実な人達は確かにいます。世の中のあらゆる美しい作品が証明しています。
 これを書いていて気が付きましたが「お母さん」と呼ばれる人達の「仕事」は賃金をもらうような仕事と比べる時、限界値振り切っている人の割合が多いと思います。きっと家族の「介護」をされる方々もそうなんだと思います。人生で全力で色々できる時間は限りがあります。それは突然閉ざされるのかもしれません。だから、そうでない時間がある人は実感が沸かないのもわかりますが、それを最大限大事にしてほしい。

 本気で物事に取り組む時、周りは全てあなたしか見えない景色である事に間違いがないし、世間的な結果はなんであれ、本気の時間は楽しくて仕方ないものです。

おわりに

 私の経験では創作物の「意図」といいうのは、作品を作る過程で成長しながらルート逸れていきます。そして行きついた先で誰より先に自分が、ああ、そうですか、となるのです。自分の作品にもかかわらず。綿密に設計図を書いた所で同じです。創作過程で変化し続ける作品そのものがじりじりと作者に働きかけてくるからだと思います。そして、そうでなければおもしろくもないのかもしれません。

 この本は脚本解釈の為の本で、まさか、そんな作用はないものだと思っていました。でも、それは間違いでした。

 結局、この本の「意図」はまるで「みなさん、脚本家と演出家とグルになってよ」って事のようです。

 そして今、最後まで通してみた時に、ある程度この本の内容が染み渡った人に最も有用な部分はこの後の付録警察官1をつくる、の「付録の付録」の部分かもしれない、と感じてます。noteでは有料で発表しますが是非読んでください。( 電子書籍はKindle Unlimitedにご登録されていれば読み放題対象です。1か月無料体験で読めます)

 名もなき者の言い張りを最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


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