7-1.自分という楽器の練習 演技の訓練
自分のイメージした音がどんなに素晴らしくとも。それが自分の手で物理的に再現できなければ意味がありません。
音の例えついでに、身体という楽器をアコギと比較してみます。少し前に草彅剛さん(役者としても素晴らしい方ですね)が「ギター歴7年でまだFが弾けない」と自虐されてましたが、並べるのもおこがましいですが、私もアコギを遊びとはいえ10年もやってBが最近3割ぐらい音が鳴って来た、というひどさです。ピアノもヴァイオリンも、プロになるには専門的に大変なお金と時間をかけて技術を磨き続ける必要があるのは、誰もが想像できます。でも身体という楽器に比べたら、これらの方がまだましな部分があるのです。
本物の楽器に比べてもっとも難しい面、それは「自分のパフォーマンスが上手くいっているかどうかは自分でほぼ、判断できない」という事です。
バッティングフォームであれば鏡やビデオがあればできます。楽器ならば10年かかっても音が出せない事を、はっきりと自覚できます。どれだけ練習が必要か想像できます。物理的に指が届かない、とも分かります。曲の雰囲気を変えないように他のコードで対応しよう、と、対応もできます。一方、演技については、自分の実感と見てる側の感想は食い違う事も珍しくありません。失敗した、自身で感じていた方が評判がよかった、という事があるのです。訓練の間、必ず、信頼できる受け手の感想が必要です。
演技の自己評価の難しさが分かるこんな話があります。自分を圧倒する演技力の相手と出会った時、ものすごく自分がうまい演技をした気持ちになる、とよく聞きます。引き出されているのですね。
私の知人の役者は、有名になる前のある役者とオーディションの現場で二人一組で演技をしました。その時「ものすごくいい演技ができた」そうです。ところが、審査員側は相手の役者ばかり絶賛しています。意味が解らなかったそうです。自分もうまくやれたのに、と。
相手の人物が今の売れっ子の地位になり、初めて相手のおかげで自分の演技が引き上げられていた事に気が付いたそうです。なんて、鈍感な、と思うかもしれませんが。ゴールデンタイムでなくとも民放で1年間ドラマの主役をやっていた日本の平均的な役者です。ちなみに、彼は若者にありがちな友人少な目の斜に構えた性格なのですが、その彼でさえ「雑談も彼(有名役者)とはチョーもりあがったんすよ」と人格も別格だったようです。
では信頼できる受け手はどこにいるのでしょう。ハリウッドでしょうか。違います。そこいら辺にいます。
演技について誰かと実験してみようと覚悟がついたのは2018 年の年始。その昔見た、小さな映画の端役の人はいったい、今どうしているだろう、と、調べたのが始まりです。
その映画は調べてみるとそれから16年前の2002年に制作されたものでした。番組制作会社に入って2年目です。深夜に偶然地上波で見た「ノンストップガール」。無冠で、映画評価サイトの一般人評価も低いいわゆるB級映画みたいなものかもしれません。でも私は妙に気にいったのです。DVDも買いました。(ちなみに人生で映画のDVDは5本くらいしか持っていません)主人公もチャーミングなのですが、それよりも4番手くらいの役者さんが妙に心にひっかかって好きでした。
前にも触れましたが、映像作品はとても好きですが、映画もドキュメンタリーやバラエティーもひとくくりに「映像作品」として見ます。役者の名前もディカプリオとかトムクルーズとかヒースレジャーとか(古いですね、知ってます)それぐらい知名度がある人しかわかりません。
話を元に戻します。「ノンストップガール」に出演されていた、とても魅力的な役者さん、調べてみました。彼の名前は…ケイシー・アフレックというのか。あの映画の後、どんな作品に出ているんだろう……前年のアカデミー賞の主演男優賞じゃないか!!
この話を若い役者に「どういう事がわかりますか」と問いました。
「……先見の目があるという自慢? ですよね」
華麗にうわスベりました。彼を励ます為に披露したのですが。
単純で大切な事。演技の事を何もしらなくても(2002年頃はADでした)素晴らしい演技は、確実に伝わるという事です。老若男女、人生関係なく、演者の番手関係なく、素晴らしい演技は伝わってます。プロとの違いは、何がすごいか説明できないだけです。いい演技かどうか、素人の私に伝わっているなら、その自分の中の「実感」を解析して言葉にして、役者に伝える事が出来るはず!と思いこみました。(そして演技の実験の場を作って様々摸索を始めました)
そうです。受け手は絶対必要ですが、真剣に見てくれるのなら誰でも構いません。友人でも家族でもいいと思います。良し悪しや点数を付ける必要はありません。ジャッジはむしろ、腹が立つ原因になったり、間違った方向へ力がかかってしまうのでやめてもらいます。単純にどういう意図を受け取ったか、の確認だけさせてもらうのです。(後半で詳しく触れます)
悪いジャッジの例を話しておきます。ある役者が「今度の映画(演技が)うまくできたんで見てよ」と自信たっぷりに言ってくれました。彼の演技は全然できてないよ、と(信頼関係の上で)伝えてありましたが、珍しく自信があるようです。映画館にお金を払って見に行きました。
相変わらずパッとしないものでした。いつもと寸分違わず同じなのに、どうしてあんなに自信満々だったのか問いました。「監督がこの芝居で売れるんじゃないかと褒めてくれたし、マネージャーにあの部分で『泣いた』と言われた」と言いました。確かに、彼は5番手ぐらいで、彼から上は全員売れっ子です。うまく行けば、注目される可能性があります。で、自分はどう思うのと問えば「みんなが褒めてくれたからうまくできたと思ってた」と言いました。もちろん、その映画で売れる事はありませんでした。上等な演技ができませんでしたから。ちなみに、褒めてもらっていたのは泣いたりわめいたりしながら混乱の中死ぬ、というシーンなのですが、なかなか、どうして、こういうシーンはうまいような気がしてくる、ようです。おばはんには1㎜も届くものがありませんでしたが。狂気の演技はジャッジを混乱させがちです。あまりアテにしないこと。(そもそも大混乱の演技で、いいのがすぐ思いつきません。悲しみ苦しみの表現として、大声で泣くなんて昨今アニメーションくらいですね。進撃の巨人のエレンの泣き声は素晴らしかった。アニメーションの枠の中で声優さんはここまでイケるのか、と)
こんな中途半端なジャッジが諸々狂わせます。「泣いた」とか「売れる」とかはぼんやりした褒め言葉には特に警戒してください。あなたが、かわいい顔をしていれば特に「具体的にどうよかったか教えていただけますか?」と追ってください。質問で相手がどんな顔をしたか観察してください。
長くなりましたので前後半に分けます。後半は楽しく続けられるような具体的な練習方法を一つ提案します。
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