4.役者の役割を音楽活動に例えると アイドル? 作曲家? 編曲家?


 次回から本題に入る前に一般的に少しズレてる役者の仕事内容のイメージを逆方向にひっぱりたいと思います。えいや。

 演技を音楽活動に例えると少しわかりやすいかもしれない。舞台で、プロとして集団で個々の楽器(自身の「声」を楽器とする)を持って演奏する事になりました。役者をこの演奏者に例えると、その役割は何だと思いますか。

 与えられた歌詞と曲を与えられた振付でプロデューサーの求めるイメージで演奏、ですか。一般的に「アイドル」のイメージかもしれません。これだけでも第一線にいくまでには身体的にも精神的にも大変な事だと想像できます。この範囲で仕事をしている役者さんが多いように見えます。実際、運と事務所と見た目と勤勉さと身体能力とが十分にあって、人柄が良ければ、現状ある程度お仕事が続きそうです。
 困難には違いないですが、事情に無知で情熱があれば、メジャーリーグより手が届きそうな気がするかもしれません。グループのアイドルの一員なら、と。

 では役者の場合を考えてみましょう。
 プロデューサーが費用を集めてくれました。ヘアメイクさん、います。舞台装置、整ってます。演出家と舞台全体のイメージを確認しました。歌詞と仮の楽譜は数週間前に受け取りました。本番直前に演出家が曲のイメージを伝えてくれます。照明、点つきました。伴奏、なんとなく、あります。舞台には他の演奏者も数人立っています。少し、歌詞を読み合わせました。「はい、では、本番です、よーい!」
「え?」です。

 何がないかわかりましたか。
「本番用の楽譜」です。メロディーは自分で書かなければありません。もちろん、楽譜も読めなければいけません。こういう曲です、と誰かがデモテープをくれるわけではありません。
ここで言う「曲」とは声量や抑揚など表面的な言い回しの事でありません。スーパー簡単に説明すると

「夏はやっぱこれだね」と枝豆を食べる

というコテコテの脚本でも、なんの為にこれを言うのか、うんと考えねばならないという事です。居合せた誰かと和む為か、落ち込んでいる友の機嫌を知るためか、隣りの枝豆嫌いなライバルを挑発するためか。脚本に直接書いていない、かつ、脚本のテーマを伝える為のアイデアを自分の人生を通して考える、という事です。

 一般の人でも曲を書くには専門的な知識が必要な事は分かります。高度な知識、知恵が必要です。音楽と演技の間の親和性がとても高いと感じるので、以降、リンクさせて説明してみたいと思います。とはいっても音楽に関しても、ギターを触るだけですので専門的な話は出てきません。皆に分かるはずです。(作曲する際出てくる「コード」という言葉についてだけ、わからなければ、コード、音楽用語、で検索して確認しておいて下さい)

 「本番の楽譜」に相当するものは演出家が作るのでは、と思うかもしれません。演出家は楽譜ではなく、イメージの設計図を持っているだけです。一時、話題になった佐村河内さんの「指示書」をご覧になったことありますか。これもちょっと検索かけただけですぐ出てきますので見てください。まさにあんな感じ。あれで演奏できますか? できませんね。新垣さんがいて初めて、演奏の練習を始められます。

 では「イメージ設計図」しか書かない演出家は悪いのか、違います。演出家は全体の魅力を引き出す為に励まし、バラバラの演奏を指揮する人、と言えばわかりやすいかもしれません。(当然曲の作り方は知った上で作品のために勇気をもって曲を書くとのを役者に委託する、「書けない」でなく「書かない」のが正解かと思いますが)
 

 なぜ脚本が「本番の楽譜」ではないのか。脚本家はシーンごとにコードを組み、シーンのセリフ(思考の切り替わり)ごとにコードを組んでいると言えます。ただ、大問題は個々の楽器(役者)がどんな音を出す楽器で、どれくらいの音域で音色で、どのコードの音を美しく響かせるのか、そもそも出せないのか(当て書きを除いて)知りません。仕方ないので、自身のイメージできる最大の、アメリカのアカデミー賞レベルの芝居で(無論監督も最高レベルで)再現します。おもしろい脚本を作ろうと再現するのに、頭の中の役者の質を下げる理由がありません。しかも、頭の中で既にオスカー俳優を使いながら、生で制作したらもっと素晴らしいものになるだろう、と(最初のうちは)当然期待します。

 アカデミー賞俳優達はセンスと長年の鍛錬で無数のコードを無数の音色と音域で使いこなす事ができます。では訓練してない俳優をどうでしょう。脚本家が30のコードの想定で作った曲を、楽譜が読めないから、弾きこなせないから、という理由で自分が奏でる事ができる2つのコードで演奏する、そんな事態も起こるのです。(※コード数は表現の幅の例えです。名曲は単純なコードである事が多いですが、それは「知らない」「できない」から少ないコードで作ったわけではないですね。ベートベンの第九の「サビ」もまさかのコードがCとGの2つだけです)もちろん、素晴らしい役者と演出なら脚本家の想像を軽々と超えていきます。脚本家は演奏できない、歌えないのですから当然そうあるべきだと思います。
 この例えだと「編曲」に当たりそうですが、作曲の知識なくして編曲もできません。少し調べてみたら、noteって素晴らしい。プロとしてご活躍されてる方の興味深い記事を見つけました。

「作詞」「作曲」に対して、「編曲」はクリエイティブであるという扱いがなされてない上に、実際には「編曲」が一番クリエイティブな作業でありかつ作業量が多い。

 と、あります。うん、役者の役割にハマってる感じがします。

 少し話はズレますが、現場をこなし続けている脚本家の友人(国内で一般的に最も有名なプロの脚本賞受賞経験者)は、経験から現場(役者と制作)を信頼していない、と言っています。私のホンを見て、このセリフの間にはあと3つ置き石を置く、とアドバイスしてくれます。アマチュアとしては演出に入るつもりで書いているので限界までト書きもセリフも削れます。なぜか。作品の中で役者が最も輝く事が、最も作品のテーマを伝える事と限りなくイコールだから。あらゆるニュアンスを役者に語ってもらいたい。だから削る。
 役者の全体レベルが役者自身の輝く機会を奪っているのはとても残念です。

 役者の仕事内容のイメージをぼんやりつかんだところで、次回は具体的に仕事に挑戦する前に鍛錬していなければいけない事を見て見ます。野球のプロテストなら50メートルを6.5秒以内、遠投90m以上という条件があるように。役者にも明言されていないだけでやらなければならない事が当然あります。
発声練習とか、大河のオファーが来てもいいように、乗馬練習? そのあたりの話はしません。知られているし、当たり前だから。



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