Doc Martin シーズン1・第6話より。チャンスを与えられた役者の失敗ともっとできたかもしれない事

「失敗」といっても。チャンスを与えられた時にはすでに「高得点」を期待されての事。そこで平均点をたたき出した時点で「失敗」になってしまう。大抜擢ってそういうハンデを背負ってますね。ああ、難しい。
 これまで褒めて学んできましたが、今回は少し趣旨を変えて。脚本の解釈と演技の組み立ての「失敗」から学べる事を見つけてみようと思います。※関係者に取材をしたわけでもなく、憶測でモノを言ってます。憶測ですが、憶測の中で理屈を通して、憶測と現実の差に関係なく、読んだ人が何か拾える事を目標にして書いてます。

 私が褒めまくった前回の村人のおじさん、シーズン1の最終話(第6話)でたくさんセリフをもらっている事に気が付きました。「気が付きました」というのは、ずっと前に見ているのに、改めて見るまで「あのうまいおじさん」が出演している事に気がつかなかったからです。皆さんは気づいてましたか?
 なぜ、気づかなかったか。どうして、遅れて気がついたか、ですが。気づかなかったわけは、第6話ではたいしてうまくなかったからです。よくよく見ると素敵なとこもありますが、平均点ちょい下で印象に残らなかったのです。なぜ、今気づいたか。前回記事を書く為におじさんを何度も見て外見を覚えていたから。
 私の勝手な憶測(!)ですが、第二話でよいお芝居をした彼が、制作側に認められてたくさんセリフをもらったのだと思います。もう、勝手に95%そうだと思います。ガソリンスタンドで客として二言だけ話した彼が、その4話後で3シーンに渡ってセリフをたくさん話しているなんてシンデレラストーリーです。いや、本当に、それくらい第2話ではうまかったわけです。極東の素人の私が長々と彼の演技の事を書きたくなるわけですから。確認すると第2話と第6話は演出も脚本家も同じです。まさに、チャンスを手にしたわけです。
 そしておじさんは残念ながらチャンスを生かきれなかった。もし、最終話で上手くやれたら、きっとその後のシーズンで大きな役をもらえたかもな、と勝手に推測します。

 8分過ぎからの、マーティンが村人に騙されるシーンから登場します。マーティンが血液恐怖症と知った村人たちがケチャップ塗れのイタズラでマーティンを試します。おじさんは縞々のシャツを着ています。

 一番失敗こいてると感じるのは9‘30”あたりの「あの顔みたか?」ですね。あんな意地悪になっちゃあいけません。なぜかわかりますか。私の他の記事を読んでくれていればわかると思います。そう、ホンのテーマからズレるからです。

 どう演じればよかったのしょうか。

 まず、私が制作であれば、第二話の彼として演じるのを期待します。そして、第二話でそうだったように、脚本の芯を捉えていなければならなかった。おじさんは二つともやり損ねました。第二話と違い、自分の出る数シーンとセリフが放つ色だけで役割を捉えてしまったように見えます。大人数の場面で演出もれがあったのかもしれません。
 「セリフはスカートについてるフリルみたいなもの」と誰が言ったか(ウタ・ハーゲンさんかな)忘れましたが、好きな言葉です。セリフの、なんて、小さな扱いでしょう笑。普通の脚本家だったら喜びます。(断じて、セリフを簡単に言い換えていいわけではありません)私の意識としてもセリフは「額縁」の感覚です。ええ、時々豪華な額縁もあるでしょうが、あくまで大事なのはその真ん中の「画」ですね。役を組みたてる時はセリフに対してそのような意識を持ってください。
 あのシーンの大切な役割は、マーティンをコテンパンに孤立させること。ならば、あの言い方で間違ってないでしょ、そう思いますか。シーンだけで捕えれば、そうかもしれません。
 第6話全体で眺めると、どうでしょうか。19分あたり、マーティンが村人の予想に反して本気でブチ切れているのをラジオで聞き、村人の興奮が潮が引くように鎮まるシーンがあります。「こんなはずじゃなかった」わけです。本気で追い詰めるつもりではなかった。血液恐怖症の医者でも、それまでの活躍から実力を認め受け入れていました。村には医者が必要なのです。
ただ、医者として大きな秘密と言える「血液恐怖症」について明かされないまま就任し、村人が騙されたような気持ちになるのは当然です。必要な人だけど何か言ってやりたい、そこで現れたこのイタズラでした。

 この第6話のテーマをダイレクトに表しているシーンは20分過ぎ辺り。ルイザとマーティンの口論です。
 村人の幼稚なイタズラにはらわた煮えくりかえったマーティンはラジオで絶叫し、村中に憤怒の声を響かせました。憤怒の演技は本当に引き込まれます。ちなみに、脚本の解釈のヒントになるべくこの記事を書いているので、セリフには、いちいち気を付けたい。私は英語は全然聞き取れませんが、英語字幕はゆっくり調べれば(誰もがだいたい)わかります。この字幕翻訳者の方、んもう、プロに向かって言いにくいですが…いいにくいから言いません。日本語字幕で見ていて、おや、筋が通らないぞ、と思うとこは英語字幕で確認してください。多々あります。

 この憤怒のセリフ、私を追い出したいなら今すぐ行動を起こすがいい、と意訳されています。耳さわりがかっこいいですが。脚本解釈と言う意味で厳密に読もうとすると、ズレてます。直訳は、ホメオパシーに「慢性幼稚病」に効くのがあるのなら、村人全員、いますぐそれをやったらいい!みたいな感じですよね。(てんで間違ってたら教えて下さい)つまり、意訳するとしても、私を追い出せばいい、じゃなくて、私の所へ来なけりゃいい、のニュアンスが強いわけです。そのラジオを聞いた、と、庭掃除をするマーティンの元へルイザがやってきます。ルイザの主張を要約すると。「自分で人を遠ざけてるのに孤独を嘆く。何にでも背を向けるあなたは、とても自己中心的だ」(好きならなぐさめてー!と思うところがコレで本当にいいホンです笑)日本語字幕の流れで見ていると、ルイザ、厳しすぎるよなあ、思ってしまいますが、直訳のマーティンの雄たけびとはしっくり繋がりますね。

「孤独を嘆くマーティン、あなたが自分で背を向けてるのよ」さて、この脚本の意図がわかれば、おじさんは役割をどう解釈すべきだったでしょう? 

 「普通」に寄せなければなりません。いい人に寄せすぎもダメです。(セリフ上、いい人にならねえわ! と思うかもしれませんが、先にも書いたようにセリフに囚われず、まず全体から考える方が大事です)なぜかわかりますか。
 明らかにその「善」役を担っているアルがいるからです。「いたずらの主犯」のバートは始終得意気ですが、息子のアルはそれほど乗り気でない。親父のバカにつきあいつつ、これはやりすぎだよな、と感じてるように演出されています。
 選択する時は「多様性」も定規になります。多様になるように狙っていく。わかりやすいのは「バートとアルの中間のどこか」です。実際はバート側に寄りすぎましたね。マーティンが一方的にやられている感じが強まりすぎました。中間に立っていれば、もう少し「意固地」なマーティンのニュアンスが伝わりました。また、その後のルイザとの口論でルイザがあんなに厳しく映る事もなかったはずです。主要人物でなくとも、これほど重大な役割を担っているわけですね。
 役者にそんな調整まで求めるわけ? と思うかもしれません。このセリフの内容でそれは厳しいだろう、と。確かに、セリフの内容が内容ですので、かなり難関とは言えます。が、自身で考えなかった結果には違いありません。
 他の役者と差がつく役者はこういう事が出来る人です。物語のテーマをきちんと伝えようとしてくれる役者が結果的に一番売れる役者になるんだと思います。売れたい利己を捨てるのは難しいですし、捨てる必要もありませんが、物語の言いたい事を伝えるんだ、と本当に心から思える事、遠回りに見えますが、これがよい役者への本当の最短のショートカットだと思います。これを忘れると貴重な時間を無駄に多く費やす事になります。

 悲しいですが、はっきり言って脚本家も間違えます。大枠のテーマをブレさせる事はありませんが、主要人物以外の細部でつめが甘い事は全然あり得ます。連ドラなど、時間のない現場や、メインの脚本家を立てて、複数人で書いている現場では特に起こり得ます。
 もう一つ考えられる要因として、「大人数で笑う事」の映像の印象が思ったより強すぎた、という事も考えられます。この「空気」はどうしても現場に行って実際にやってみないとわからなかったかもしれません。
 脚本家の実力どうのという事でなく、机上で演奏家も音も知らずに作曲してると想像すればどうですか。現場で調整があって当たり前ではないですか。(一部調整全てを歓迎しない脚本家もいるでしょうから、コミュニケーションは必要ですが)

 もし、おじさんの役者がここで真ん中を取って演じてくれていたら脚本家は「救われたわー」とに感謝し、役者への信頼が莫大になる事間違いなしです。この役者とまた何かやりたいとプロデューサーに言うでしょう。そんな役者さんが見たいなあ。

 本日も来てくれてありがとう。

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