11. 俳優業の本当の一番痛い所

 俳優業の痛みについては想像しやすいもの、良く知られたもがあります。時にはそれよりずっと大きい場合もあるのに、ほとんど話題に上る事のない痛みの話をさせてください。傾向として「格好いい」痛みはすぐにシェアされますが、そうでない部分は隠れがちですね。ここで話す「一番痛い」はずの場所に何も感じない役者は、そもそも、役者の仕事を理解していません。なんて偉そうに言ってます。

 知られている所から行きましょう。

 一番想像しやすいのは身体の痛みですね。それこそ、痩せたり太ったり、かつては整形や抜歯した人もいました。

 精神の痛みにはバリエーションがあります。演技自体の痛みです。ロバート・デ・ニーロさんら数々の名優を育てたステラ・アドラーさんがその著書『魂の演技レッスン22』の中で「あなたは俳優になろうと決めた。それは心の底まで傷つく事。でも痛みから逃げるのは死ぬことよ」とシンプルに教えてくれます。とても素敵な役者だったヒース・レジャーは若くして亡くなりました。メソッド演技法のせいだった、とも言われます。(議論が深すぎるのでここでは触れません)その種類の痛みは、それでも、犠牲を払った分、人として、世界全体として大切な何かを得ているかもしれません。
 「有名」になった後の痛みも相当量に違いありませんが、詳しくないのでここも触れられません。良い仕事、役を待たなければならない、「受け身」の姿勢がつらい人もいるかもしれません。

 私が触れたい痛みはもう一つ、別の場所にあります。まず「演技の創作」(有料記事から抜粋)を振り返ってみます。

 衣装に例えるなら。衣装のデザイン画を得ます(=脚本の読解完了)。主人公はスカートで緑色のタイト。私は緑を引き立てるベージュのコート。私が出せる色はデザイン画より少し濃い。けれど、このベージュは主人公の緑が引き立つ為の色だから自分の使える染料でイケる。帽子の担当者の色とかかち合わないように違う色も用意しておこう。脚本のイメージであれば、もう少し、腰回りにゆとりがある方がいい、そうすると、布の素材はもう少しテカリを抑えた方がいい。主人公がどんな素材でくるかにもよるけど、ざらついた麻の感じがいいか。縫ってみよう。

 役者が自分の役を作っていくことを衣装に例えました。

 ここで、想像してみてください。自分が依頼された衣装のデザイン画が、自分にとって爆発的にダサかったらどうですか。もしくはそっくりなのが既に作られていたらどうですか。やる気が起きますか。お金をもらえたら実行できますか。

 でも、萎えますね。100歩譲って、二番煎じでも自分の方がもっとうまくやれる、という気持ちが湧くのであれば落ち着くかもしれません。でもめちゃくちゃダサいのに、自分の心骨注げますか。

 現実はダサいどころではありません。この服だけは着たくない、そんな服の依頼があるかもしれません。こんな服を作ったら、誰かがものすごく傷つくかもしれない。あるいは質の悪い奴らだけを励ますかもしれない。でもお金がたくさん入る、どうですか。なかなかの葛藤ですね。でもまっとうなら、この映画の主役だけは絶対イヤだ、となります。

 少し前、知人の役者が映画の資金の出所が思想団体で驚いた、という話をしていました。気が付いた時は公開からしばらくたっていました。宗教団体が作っていると明らかな映画もありますが、彼が出演した映画はそうではありませんでした。名前を変え、その組織の存在は監督とプロデューサーだけが知っていたそうです。映画のある部分に気持ち悪さを感じた知人がプロデューサーに居酒屋で訴えたとき、やっと漏らしたそうです。主演俳優にも隠されたままです。どうして隠されたままだったのでしょうか。そこが問題です。映画の内容はいわゆる「シンプルにいい話」でした。
 思想の良しあしの判断はここではしません。特に景気の悪い時期、資金が潤沢にある団体は限られてきます。でも知らないうちに、特定の思想の片棒を担ぎたい人なんていません。覚悟して出演するのが最低条件です。思想は脚本の中に入っています。役者をやるのであれば、社会と切り離される事はありません。自分の頭で考えなければいけません。脚本を読み切る力が必要です。ヒトラーが人々を扇動するために映画を利用した事は有名です。大袈裟ですか。脅しているんじゃありません。実際にあった事を言っています。 挑戦的な作品などほとんどない、借り物で作られた当たり触りないものばかりで心配無用だ、という人もあるかもしれません。当たり障りないものも量産されたら毒です。そんな考え方で役者を続けて、誰かをものすごく感動させたらならば、教えて下さい。是非、知りたい。

 役者の仕事は誰か(原作者や脚本家)の言いたい事、思想を声を大きくして言う仕事です。どれだけ売れても、誰かの言いたい事から逃れられません。それを助けるために、最大限自分を使うのです。その作業に喜びを見出すには自分の中にどんな動機が見つけられますか。原作者や脚本家が心骨注いで作品を作るのも、こうなると比較にならないくらい気楽に聞こえます。自分の言いたい事ですから。有名になった俳優が作品選びに慎重になるのは彼らのブランドを守る為という認識が強くありますが、それだけとは思えません。

 『フラッシュダンス』や『危険な情事』のエイドリアンライン監督が「監督の仕事は自分の役に全てを捧げなくちゃいけないと俳優に分からせる事」と言ったのは本当に、その通りだと思います。地位のある役者が監督や企画に携わっていくのも自然の流れです。

 敏感でなくてはならない俳優業でそこだけ鈍感になる事はありえません。覚悟すべき最大の壁の一つだと思います。

 こんな内容でも、一つ、建設的な事を加えられます。オーディションなどで立ち上げる側と面会があった時、企画側の意図がいかに分かっているか伝える事です。(理解してないとできませんが)これが相手に伝われば大きなポイントになると思います。

 次回、最終回は表現の喜びとその大きな責任(今回も少し触れましたが)についてです。是非、最後まで付き合ってください。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?