話すのが苦手なのはなぜだろう。幼少期を振り返る。

私は喋るのが苦手だ。
それはなぜなのだろう。そう考えた時、幼少期が頭によぎる。

幼稚園と小学校で、私は一言も喋らなかった。
入学式の日、恥ずかしくて喋らずにいたらそれがずっと続いてしまった。
喋れない病気だったわけではない。学校から帰ってくれば、家では大はしゃぎだった。友達とも学校では話さないが、遊ぶ時は話した。
なぜか学校に行くとしゃべるスイッチがオフになって、私とのコミュニケーションは、首を縦にふるか横にふるかでしか行えなかった。何を考えてるかわからず先生を困らせていたに違いない。

要するに、昔から圧倒的アウトプット不足なのだ。喋らないということは、他人の話をニコニコして聞いていればいいのだから、相手の話を聴きながら自分の意見を考えるということをして来なかった。相手が話しやすいような表情をしてうんうんと頷く、これが私の生きる術だったのだ。

それは今でも変わらない。相手の話を理解する力はあるので言われたことをそのまま実行に移す能力は高い。どのバイト先でも「理解がはやくて助かった〜」と言われてきた。だがしかし、それに対する意見を求められるとダメなのだ。相手の話を噛み砕こうとしないから、す〜っと頭の中に消えて行く。

これは決して話す時だけの弊害ではない。ライターとして文章を書くようになってからも、自分を出すことができないことに気づいた。文章の中に自分がいない。ただ聞いたことをまとめて文章にしただけ。機械にでもできるのではないかと思える作業だ。よく指摘されるのは、メリハリがないということ。どこが大事でどこを強調したいのかが見えて来ない、と。

私が憧れるのは、新たな言葉を創造する人。聞いたことを自分の中で噛み砕いて、相手の言いたかったことはつまりこういうこと、と新たな言葉で表現する。それはきっと相手の「そうそう、そういうことがいいたかったんだよ!」にも繋がる。

話すのが苦手なのとともに、感情を表に出すのが苦手なので、無意識に自分を消そうとしているのかもしれない。自分をさらけだすのが怖いのかもしれない。誰かと対立する人生を送って来なかったから。そりゃそうだ、自分の意見を言わないのだから、対立しようもない。

考えてみれば、このnoteを始める時もツイッターを始める時も、批判がきたらどうしようとか考えていた。それでもやろうと思ったのは、発信のツールがない限り私はいつまでもアウトプットできないと思ったから。なにか思ったらつぶやけばいい、そんな場がほしかった。

過去は過去。過去のせいにはしたくない。そうは思うが、この過去が今の私に影響しているというのは少なからずあるだろう。
しかし日々の訓練で、変われると思う。何も考えずにぼーっと生きてきたけれど、やっぱり新たな発見があったほうが人生楽しい。
誰かに自分の考えを伝えることは簡単ではなく、うまく伝えられない自分にもどかしさを感じることもあるけど、全ては自分次第で変われるんだ。
日常生活での目のつけ方も、企画力も、全ては自分次第。

将来このnoteを読み返して、私はどう思うんだろう。

これでおいしいものを食べます🍴 ありがとうございます!