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【今日コレ受けvol.011】じゃないほう
毎朝7時に更新、24時間限定のショートエッセイCORECOLOR編集長「さとゆみの今日もコレカラ」。これを読んで、「朝ドラ受け」のようにそれぞれが自由に書く「遊び」を集めたマガジン【今日コレ受け】に参加しています。
昔から、「なんでうちは普通じゃないんだろう?」と思っていた。
なんで、帰るとヤンキーのお兄ちゃんがいっぱいいるんだろう。家の前に、ボンボンと低い音を出して走る車や、バイクが停まっているんだろう。なんで父は、校長先生や教頭先生と喧嘩ばっかりしているのだろう。そしてなぜ、その場に私がいるのだろう。
これって、ぜんぜん普通じゃないよね? と。
父はいわゆる金八先生的な熱血教師で、昔でいう「落ちこぼれ」の生徒さんの面倒をよく見ていた。小、中、高校で教師をしたことがあり、彼らが卒業しても家にきていたので、さまざまな世代の人が入り混じっている。お金がないからと、ご家族みんなでしばらくうちに住んでいたり、旦那さんのDVから避難した母子を匿っていたこともあった。
象徴的なのは、家に全く鍵をかけなかったことだ。いつ、誰が訪ねてくるか分からないから。そして、お風呂にも、トイレにも、鍵をつけていなかった。「風通しのいい家」にしたかったんだと思う。
と言いつつ、父は生徒さんのことで走り回っていて毎日午前様、母も日が暮れてからでないと帰宅しないので、私達きょうだいは、大半の時間をその人たちと過ごしていた。さまざまな人と話し、その悩みに触れることで、自分のいる社会について考えることが多かったように思う。
大人になった今。
考えてみるとあの特殊な環境は、どうやら私のアイデンティティの根幹になっている気がする。
最近、ライターとしてのキャリアを内省して考えてみたときも、「勉強ができない」「お金がない」「子育てがうまくいかない」「人とうまくやれない」などなど、「持っていない側」「普通じゃない側」「普通じゃないとコンプレックスを持って生きている側」の人に向けて、少しでも役に立つ文章を書きたい、という想いが湧いてきた。
父は実子に関してはかなり放任だったので、直接はそんなふうに指導されなかったと思う。でも、刷り込みなのかDNAなのか。父の口癖だった「弱い人の側に立つ」という考え方が、自分のコアにドーンと仁王立ちしていた。ひええ。
と言っても、なにか大きなことができているワケではない。ただ、文章を書くときには、「持っていない側」「できていない側」の人を思い浮かべ、その人に届けたいと書くことが多い。
というか、考えてみれば商業的な文章は、そもそも、課題や疑問解決を落としどころにしたものがほとんどだ。「できていない側」「持っていない側」に向けて書いて当然なのだ。
そうやって、人は育った環境に、家族に、起きた出来事に、知らず知らずに導かれ、助けてもらっているのかもしれない。じゃないほう、だったとしても。
人生、なにが役に立つか分からないものだ。
いや、だからと言って、「あの家に生まれて良かった」という気にもなれないのだが……。
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