わが青春想い出の記 37 約束の日は来たのだが

 銀河丸は予定通り神戸港に着き、荷物の積み込みも順調に済んで神戸港を定時に出航した。あとは那覇の港に着くだけである。東京を出るまで心配していた海の荒れもなければ、風も穏やかである。このまま順調にゆけば、明日には那覇の港に着くはずだが今となってはこの順調な航行が却って腹立たしい気さえする。
 翌日、船は予定通り那覇の港に着いた。2人が待ちに待った3月30日である。この日が来るのをあんなに待っていた洋子。半年前から着て行く服装まで準備して楽しみにして待っていたその日である。
その3月30日になったのだが・・・・・・・。
船も間違いなく那覇の港に着いたのだが・・・・・・。
自分も約束通り帰って来たのだが・・・・・・・・。
だがそこには・・・・・・・洋子がいない。
人々は大喜びして船の小窓から港を見てはしゃいだり、デッキに上って手を振って喜んでいたが、自分は失心した者のようにぼんやり船室の片隅に腰掛けていた。
 
 船が接岸すると、人々は我先にと喜んで下りて行ったが、自分は降りたくなかった。夢遊病者のように座ったままでいた。そんなところにがやがやと3、4人の人が入ってきた。目を上げて見ると、佐々岡と父、そして洋子の叔父だった。
 
 佐々岡は自分を見るなり声を上げて泣きだし手を握った。自分も初めて誰はばかることなく、思いっきり泣いた。父も泣いた。叔父も泣いた。ああ、洋子が生きていたら。しかし泣けるだけ泣いたら少し気が楽になった。そして3人に貴いもののように付き添われながら船を下り、那覇の土地の上に立った。3人は怖いものに触るようにいたわってくれた。自分は三人の態度から心配かけたくないと思った。

 洋子のことは誰も口にしなかった。だが、お互いの心の中は痛いほどよくわかりあえた。
 
 自分は洋子の最後の様子を聞きたいと思ったが、それを聞くとまた泣き出しそうになるので聞けなかった。
 
「お母さんが心配しているから、電報を打って来る」
と、言い残して父が離れた。叔父もその場をはずしていた。佐々岡と2人になったが話す言葉はない。2人は黙っていた。その内にたまりかねてまた泣きじゃくった。
       
 那覇に住んでいる洋子の叔父はご丁寧な慰めのことばを言って帰った。父と佐々岡は、「那覇に一泊してから帰ろうか」と言ったが、自分はその必要はないと言った。2人があまりにも心配しているので心配させたくないと思ったからだ。今更心配しても洋子が死んだのは事実のようであり、この事実はどうにもならないのだ。それよりも早く我が子の帰りを待っている母親に会い、そのあとで思う存分泣きたかった。
 
同じ日にたまたま乗り継ぎ船があったので、3人はその船に乗って我が家へと向った。
自分は2人に大事にされ、同情され、いたわられていることに感謝せずにはおられなかった。その内、疲れたのかウトウトしてしまった。
 
 十数時間後、船は目指す港に着いた。姉と佐々岡の奥さんが迎えに来ていた。
「お帰りなさい」
と、姉は少し微笑んで言った。自分も少し微笑んで
「ただいま」
と、微笑しながら言って見せた。それは不自然な微笑だった。しかしおかげで泣かずにすんだ。

家に着くと母が玄関まで出てきていて、
「よく帰ったね」と、言った。そして母の方が先に泣き出した。それは我が子の無事な帰りを喜ぶうれし泣きのようにも思えた。すると止め処もなく悲しくなった。
 
 死ぬということは実によくない。あってはならないのだ。どんなに叫んでも、悲しんでも、お祈りしても取り返しができないからである。そう思うと益々寂しさと悲しみが増すばかりである。部屋に入っても何することもなく椅子に座ったままぼんやりとしていた。どのくらい時間が過ぎたであろうか。
 
「食事の用意ができました」。と、母が呼んた。
「すぐ行きます」と、答え、泣きはらした目を拭き顔を洗って食事に行った。そこには自分の帰りを祝う小宴が用意されていた。久方ぶりに家族全員が集まり、小宴を開くのは楽しいことには違いない。しかし心中はあまりにも寂しかった。だが泣くことだけはやめようと思った。
 
 
 
 
 
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?