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大胆かつ繊細! サービス精神溢れる勝新が語った「完全なものは偶然にしか生まれない」の神髄とは?

前回、文藝春秋を定年退職し、いまはフリーとして文春新書の編集をしている石橋(さん)に勝新太郎さんとの思い出を綴ってもらいました。

頭をポリポリ掻いて「いや?、困っちゃうなぁ」。絶頂期のたけしすら絶句した勝新の話芸:文春新書note  2022.04.26〟

ハワイでのパンツ事件をめぐる独占告白と、それにつづく連載対談第一回目のゲストであるビートたけしとの顛末について書かれていて、勝さんとのやりとりを通して若手編集者だった石橋さんが、文章とは「息づかい」であることを教えてもらったという内容です。

未読の方には是非、読んでいただきたいのですが、あまりにも面白いので「続編を書いてください」とゴリ押ししたところ、快諾してもらいました。

抱腹絶倒の勝新劇場が再び幕を上げます。お楽しみください。

あ、すげぇ、この人は

前回からの流れで、勝新がいかに芸と教養の塊であったかについて、ちょっとだけ補足しておきたい。

勝さんとの仕事は1990 年から92年までで、その翌年、目白の椿山荘でのディナーショーに一度呼ばれたきり、彼との付き合いは途絶えていた。

彼が、がん闘病のすえに亡くなったのは、97年6月のことである。

そのとき、私は『週刊文春』で主に事件を追いかける特集班にいた。勝さんと親しくさせてもらっていたことを知っていた当時の編集長は、私に一本の記事を作るように命じた。

そこで思い出したのは、勝プロダクションのプロデューサーをしていた〇山氏のことだった。彼とは勝新の担当をしている間に何度も顔を合わせていて、打ち解けた仲だった。すぐ彼に連絡を取ると、勝新との二十年間にわたる付き合いの中で書き留めておいた名文句が山ほどあるという。

翌日彼に会ってインタビューし、書いた記事が「私だけが聞いた『20年間の名文句』と勝新太郎〝最期の病室〟」である。

〇山氏が勝に最初に会ったのは、『座頭市・冬の旅』の撮影初日のことだ。彼はその頃、女優・原田美枝子のマネジャーをしていた。

抜粋してみる。

 僕と美枝子は勝プロのスタッフルームにいました。そこへ、ノックもなしに目のギョロッとした男がいきなり入ってきました。「俺、この台本通りやんないからな」といきなり、ぽーんと台本を投げた人、それが勝さんでした。

 おかしなことを言う人だなぁ……。「このシナリオ通りやんないのなら、どういう風にやるおつもりですか」と僕は思わず口にしていました。

 飛ぶ鳥落とす勢いの大スターに、そんなことを面と向かって言う者などいなかったのでしょう。勝プロのプロデューサーは、勝さんが怒りだすんじゃないかと思ってか、そばでオロオロしている。勝さんは、キョトンとした顔で、怒られたことのないガキ大将が怒られちゃった、みたいな感じで立ったままでした。

 ところが、突然その場に座りこみ、ストーリーを語り始めたんです、仕方話で。その語りが絶妙でした。しかも座頭市だけではなく、美枝子の役まで一人で演じてみせる。大スターの生の芸を目の当たりにしたわけです。それで、参っちゃったんですね。あ、すげぇ、この人はと。

『週刊文春』1997年7月3日号

役者は「セリフが入る」とか「入らない」とよく言うが、勝はそのレベルをはるかに超えていたことがわかるエピソードだ。これに補足をしておくと、勝と森繁久彌の対談に興味深いやりとりがある。

森繁 腹の中と言えばね、女優さんになったばかりの綺麗な女の子なんだけど、「きみはセリフ、どこで覚えるの」って聞いたんですよ。(ドギマギして)「セッ、セリフですか。目で見てですね、頭で覚えるんです」「ハアー、そう。立派なもんだ。だからきみは顔しか撮れないんだよ。それね、飲んでみな」「えッ、セリフ、飲むんですか?」

 そうそう。セリフ、噛んで飲んでみなって。

森繁 「そうしたら腹まで撮れるよ、おまえさん。本当はそのセリフ、クソにしてね、出しちゃえ」

 そうそう、そうそう。

森繁 「全部、捨てちゃえ、セリフ。そうすると、グーッと引いてね、おまえさんの全身が撮れる」

 そう。

森繁 「……とあの有名な勝新太郎先生がおっしゃってる」と。

 何を言ってるんだ(笑)。

『文藝春秋』1993年10月号

ちなみに、このときの勝新と森繁の対談こそは、まさに丁々発止の秒の取り合いで、芸と芸のぶつかり合いであった。

〇山さんの話に戻す。その数カ月後、映画『座頭市・冬の旅』は完成し、銀座で打ち上げがあった。

 この頃の勝さんの飲みっぷりは豪快だった。それを何軒か繰り返して、次の店に行く時に、勝さんが僕の傍へすーっと寄ってきて、肩を組んだ。そしてぐでんぐでんに酔っていたはずなのに、僕の耳元で「馬鹿らしいと思うだろ。でもな、こういうことも大切なんだ」って囁いたんですね。

 少なくとも囁いたその瞬間はまるで酔っていない。その時から僕の中で、勝新という人は、単なる大スターや役者ばかという言葉ではくくれない、相反する二つのものーー粗野と繊細、豪快と優しさーーを同時に感じさせる存在になったんです。

『週刊文春』1997年7月3日号

〇山氏はまったく社交的な人ではなく、ややもするとつねに青い正義感を胸に秘めたような書生みたいところがあった。きっと、飲み会のバカ騒ぎを冷めた様子で見つめ、距離をとっていたに違いない。

会の趣旨にとってはどうでもいいことのはずだが、そんな一人の男のことを気に留め、その心の動きまで見透かしてしまうのが勝新なのである。

「偶然完全」

次に紹介する言葉は、79年に勝が原田美恵子を起用して、明治座に芝居『市の耳に子守唄』をかけたときのものだ。

子連れ女役の原田が道中で市と知り合う。二人が旅を続けているうちに、原田は殺される。死ぬ間際の言葉を守って、市は女の両親のもとへその赤ん坊を届けに行く……。

 ある日の公演のことでした。終幕間際、後ろ髪引かれる思いを引きずりながら別れてきた市の後を追うように、赤ん坊の泣き声が劇場中に響きわたる。その時、立ち止まった市の草鞋の紐が切れてしまったんです。僕は思わず息を呑みました。
 すると勝さんは、切れた草鞋を引っかけたままの足を静かに持ち上げていき、その草鞋を引きはがすようにして、くるりと両腕に抱えこみ、羽織っていた旅合羽で覆った。その瞬間、草鞋はものの見事に赤ん坊になっていたんです。
 背筋がゾクッとするような感動でした。無事に幕が下りて、僕は楽屋へ行きその感動を伝えると、メイクを落としながら勝さんが、「その感動を忘れるな。お前は今日、古典の原点を見たんだ。こうして偶然生まれた芸が積み重なり、歳月とともに磨かれて、古典として残ってゆく。完全なものは偶然にしか生まれない」。
偶然完全」。勝さんはこの言葉が好きでした。終幕間際の芝居がまさに「偶然完全」でした。(同上)

この週刊誌の4ページの記事はとても評判が良かった。

記事を読んだ出版担当常務が編集部に現れて、いかにもコーフン冷めやらぬといった面持ちで、「これを書いたのは誰だ?」とフロア中に響くような声を発した。「石橋クン、キミか。これは面白れえッ! すぐに本にした方がいい」。

私も激しく同感だったが、〇山氏がよその会社で本にすることはすでに決まっていて、それは叶わなかった。半年ぐらい後に出たその本は、構成も文章もいまひとつどころか、惨憺たる出来で、ガッカリしたことを覚えている。

2時間怒鳴られまくる

本筋からはかなり外れるが、実は、この話には後日譚がある。

週刊誌の記事を出すときに、〇山氏が無名だったために、タイトルの脇に、「『座頭市』脚本家 〇山△一氏が明かす」と、担当デスクがひと言付け加えたのである。

出来上がった雑誌を見て私が仰天したのは、〇山氏を〇川氏と間違って印刷してあったことだ(印刷所のミスだったように記憶している)。

発売された雑誌で記事を見た〇山氏から、編集部に電話がきた。名前の間違いはあっても、まあ、記事になったことへの好意的な感想かなと思って受話器を取った。

「はい、石橋です」

そこで、轟いたのは予想だにしない怒声だった。

「キサマ、俺をナメてんのかッ! 俺のことを『座頭市』脚本家とは何ごとだあッ! ふざけるなぁ!!」

耳がキーンとなった。

状況を理解するために、グルグルと頭に血をめぐらせた。名前のミスに対しての怒りではない。それにしても、彼を脚本家と冠したことの何がいけない? それほど怒るべきことなのか?

要は、こういうことだった。

俺はたかだか「座頭市」の脚本を一本やっただけの木っ端にすぎない。それを手柄欲しさみたいにして、自分で脚本家と名乗ったようにしか見えないだろうが。これじゃ、「座頭市」を何本も書いた、〇〇さんや△△さんに合わせる顔がない。どうしてくれんだ、と。

「すぐ、こっちに来い」

怒りすぎていて、もう声がおかしい。とにかく、紀尾井町から四谷三丁目のファミレスまですっ飛んでいった。

そもそも、その問題の文言を付け加えたのはオレじゃなくて、デスクだよ、それに、あなたは無名なんだからオレがデスクでも同じことをするよ、と思いつつ、言い訳は一切すまいと心に決めた。

彼の目は座り、顔は怒気をはらんで赤く上気していた。席に近づき、謝罪しながら深々と頭を下げる。そして、座った。

そこからが長かった。会ったのは夜中の11時ぐらいだったが、ようやく解放されたのは深夜の1時。2時間、ずっーと怒鳴られた。人が怒れる最大値はこのぐらいなのではというほどの激怒ぶりだった。その間、何度詫びたか数えられない。

しかし、話はそれで終わりではない。怒りが収まらない〇山氏は、今度は編集長に電話をかけ、彼を呼び出し、延々と怒鳴りつけたらしい。しかも、日を変えて、二度三度。

私の知らないところで、編集長がそんな目に遭っていたとは! 私がコトのいきさつを知ったのは何週間も後のことで、当の編集長が明かしてくれたのだ。

編集長いわく、

「ブーちゃんがさ(彼は私をこう呼んでいた)、一生懸命、記事を作ってくれたわけじゃないか。怒鳴られるのは僕の役割だよ」

自分で書くのは少し気が引けるが、こう続けた。

「でもね、〇山さんは、最後には、『あいつは言い訳を一切しなかった。俺はあいつのことが好きだったんだよ』とキミについて話して、しょげかえっていたよ」

はあ、そういうことであれば、多少なりとも、怒鳴られ続けた甲斐があったというものだ。

今にして思えば、〇山氏も普段ならば、ここまで怒りはしなかっただろう。おそらくは、勝さんを失ったという途方もない喪失感が、彼の精神的なバランスを壊し、怒りの暴走へと掻き立てたのではないか。

そういえば、勝の周りには、勝にベタ惚れした人間が群れをなしていた。

だから、今回は勝の人間的な側面について書いてみたい。たかだか一年半ぐらいの付き合いで、勝さんのことを語るとは、キサマ、ふざけるな!!とまた〇山氏に怒られそうだが……。

京都に瀬戸内さんを訪ねる

忘れられないのは、『文藝春秋』の対談で、京都の瀬戸内寂聴さんのところを訪ねたときのことだ。昨今のセチ辛い社業からしてみれば、まさに〝豪遊〟とも呼ぶべき二泊三日だった。

なにしろ京都には撮影所の太秦があるから、この街は勝新の第二の故郷なのである。勝手知ったる自分ちの庭みたいなものだ。

京都には勝プロの支局みたいなものがあって、勝と同い年ぐらいの社員が2名、駅に待機していた。駅付けされていたのは松平健が所有するロールスロイスである。

松平は、勝プロが大部屋から拾って育てた役者で、すっかり大物となり独立した後も、勝への恩義を忘れなかった。勝が京都に来れば、自家用車を回すのである。

新幹線の車中で酒を呑んでいた勝だが、ありゃと思う間に、ロールスロイスのハンドルを握っていた。なんか、楽しそうに、子どものように運転している。

担当者としては、ここで事故でも起こされたらエラいことになるなあとちょっとハラハラした。

今回の肝腎の主目的であるが、瀬戸内さんの寂庵での対談(「中村玉緒に浮気のすすめ」)はつつがなく終了し(これがすこぶる面白い)、わたしたちは、街中で遊ぶことになった。

まず、晩御飯は、上七軒にあるステーキ屋「ゆたか」と決まっていた。この店には看板もない。勝新が、日本一旨いステーキ屋と呼んで憚らなかった店である。

看板もない入口からは想像もできないぐらい奥は深く、テーブル席や鉄板カウンターのある部屋を通り過ぎて、VIP御用達であろう立派な二十畳敷きぐらいのお座敷に通された。

例によって、勝がアレを呼べ、コレも呼べと言って、総勢は瀬戸内さんを含めて9人になった。

日本一旨いというからには、値段も相当なものになるに違いない。血相を変えたのは、勝プロの大番頭の真田常務だ。あちこちに電話をしては、金策に走っている。

結局、お財布となってくれたのは、勝新のタニマチの一人で大阪のパチンコ王だった。

急に声をかけられたにもかかわらず、彼は歳の釣り合わない女性と二人で駆けつけてくれた(目敏い瀬戸内さんは、一目でこれは夫婦ではないと見抜いた。なのに、そのパチンコ王に向って、わざと「奥様は…」「奥様は…」と何度も言及するという意地悪をしていた。そのたびに、二人は微妙な顔をする。〝奥様〟本人には決して話しかけない。女流作家というのはコワい)。

パチンコ王、カネを払わされるわ、意地悪をされるわで、踏んだり蹴ったりである。

たしかに、肉はそれまで食べたことがないぐらい凄まじく旨かった。肉の質はもちろんのこと(店のオヤジによれば、丹波の仔牛が日本で最上の肉ということだ)、こんなに美しい焼き色をした肉を私は見たことがなかった。外側はこんがりと焼け(しかし、火傷はしていない)、サシの部分は見事に融解し、中の火入れも完璧。箸を立てれば、すっと下まで切れてしまう。もちろん、肉の旨味は凝縮されている(ちなみに、後に私は旅行誌の編集長などをして世界中で最高のものを食べることになるのだが、肉に限っていえば、このステーキを超えるものはなかった。「ゆたか」の肉焼き名人のオヤジは引退して久しい)。

サイドのサラダ鉢にかけた乳白色のフレンチドレッシング、たかがドレッシングであるが、トロリン、これまた悶絶するぐらいに旨かった(これは聞けば、店のオヤジが長年かけて開発したもので、どこそこの塩に、どこそこの卵、コショウは特別なもので、材料費はめちゃくちゃに高いのだそうだ。キユーピーが目をつけて、レシピを教えてくれと頼んできた。教えてあげるのはいいけど、採算は全く取れないよと言ってやった、とオヤジは話してくれた)。

勝新は食事のあいだ中、艶笑小咄を延々と続けて、楽しませることも忘れない。肉を食べるために袈裟を脱いだ瀬戸内さんは、笑い転げている。

例えば、こんな感じだ。

 祇園町かなんかでさ、舞妓が(声色で)「おおきに。長いことどす」って言いながらプッと屁をしちゃう(笑)。

寂聴 またあ(笑)。

 すると、三味線を持った芸妓が小声で、「おならは帳場でしておでやす」って怒る。(三味線弾く真似をして)姐さん芸者が、チーン、テーンって弾くと、プッと屁をする(笑)。(弾きながら無表情で)「うちも、すぐ行くさかい」(笑)。
 それこそ、三味線弾いているのが吉永小百合かなんかで(笑)、そういうのを丁寧に撮ってみたいね。

『文藝春秋』1993年5月号

こんな豪勢な食事に、シャトーマルゴーなんぞをポンポンと開けさせるもんだから、そりゃもう、高かろう。勘定を後で真田さんに聞いたら、一人5万円で、計45万円也とのことだった(東京なら一人10万円という内容だ)。ヒエ~。パチンコ王、ご馳走様でした。

金額のことなどモノともせず、もちろん支払いの心配などはまるで念頭にもなく、勝新は、「どうだ、旨いだろ。旨いだろ」と上機嫌だった。

なにしろ、ここのステーキに惚れ込むあまり、勝新は自分がオーナーになって東京に支店を出させたことがある。しかし、人を呼んでは、「どうだ、旨いだろ」と大満足で、全部タダにするもんだから、赤字が累積して、アッという間に支店は潰れたんだそうだ。

大スターの信条

勝新は人を楽しませることを信条としていた。

例えば、東京から京都駅に降り立ったときのことだ。勝はジャケットをはおり、野球帽をかぶってサングラスをしていた。変装のつもりである。しかし、100メートル向こうから見ても、勝新以外の何者でもない。

勝に気づいたおばちゃんが、駆け寄ってきた。勝は帽子を脱ぎ、サングラスをはずすと、ペコリと一礼して微笑み、おばちゃんの手を握っていた。

昔の大スターってのは大したもんだ。

京都の定宿は藤田ホテルである(いまは存在しない)。タクシーでホテルを出るときのことだった。車を誘導する制服のホテルマンの横を通るとき、車を止めさせて、窓を下げる。そして、チップを渡すのだ。

それを通るたびに必ずやるのである。

聞けば、昔は一万円だったが、勝プロが倒産してからは千円になったそうだ(笑)。ちなみに、こんなことをする有名人は、関西では、勝以外には藤山寛美だけだったらしい。

スターというのは、生きている上での意識がまるで違う。ビートたけしとの対談で、勝はこう話していた。

たけし 勝さんはほんとにサービスしちゃうんだね。根っからそれなんだよな。自分を傷つけてもサービスしちゃうでしょ、勝さんは。お客に。

 好きなんだよ、俺は。(中略)

 クラブでもどこでも、遊び場所に行ったら、自分がホストでこのクラブのオーナーだと思っちゃうんだ。

 自分の席に女の子が大勢座ってくれたら、「ありがとうございます。いらっしゃい」。こんな綺麗なお嬢さんたちが自分の席をヒイキに来てくれると思うと、うれしくなっちゃって、こっちから「何飲みます?」「水割り?」「はいっ、少し強かったかな」「きれいな手ぇしてるね」「かっこいいなあ、この太股」「口説きたくなっちゃう、商売抜きで」(笑)なんてね……。

 金を払うと思うから遊べないんだよ。金をもらうんだと思うから遊べるんだよ。周りも楽しくなるんだよ。百万使って、十万楽しませてくれたら御の字さ。ところが十万円で百万使ったような面をする客が増えちゃったから、遊び場じゃなく戦場になっちゃったんだよ。

 それは芸人にも言える。十万円ぐらいの芸をして百万を取ろうってんだから。

 なんたって、道楽の最高は芝居することだよ。役者だって同じことさ。てめえで金を出したって芝居したくなるんだから。だから役者は困っちゃうんだよ。そのへん、たけしはたいしたもんだね。

たけし (笑)……(頭かきかき)まいったね。五万円の芸を二十万で売ってるだけです(笑)。

 『文藝春秋』1992年7月号

祇園のお茶屋にて

京都の夜に話を戻す。ステーキ屋を後にした一行は、瀬戸内さんが行きつけの祇園のお茶屋に向かった。

勝プロの懐具合を察した瀬戸内さんは、次は私が払いますからねと前置きしている。

総勢6人の客に、舞妓と芸妓が合わせて3人ついた。と、たまたま店に居合わせたのが、後に人間国宝となる京舞井上流家元の井上八千代であった。

勝は芸妓から三味線を取り上げると、やおら、調弦をはじめた。勝新が弾き、それに合わせて井上が舞うという、何とも豪華な場面が展開されたのである。

そもそも勝は、長唄三味線の杵屋勝東治の次男である。長男の若山富三郎とともに、三味線は達人の域に達している。おさらいをしなくても弾けるのかと思うのはシロートだけ。三味線は体にぴったりと収まって、自然(じねん)の所作で弾けてしまうのだ。

こんな名場面の最中に、瀬戸内さんがこっそりと私に耳打ちした。

「あのね、勝さんとこにはお金がないことがわかっているから、店に来ても喜ばれないの。だから、大声で私が払うと言ったのよ」

なるほど、店に入った時に女将が微妙な顔つきをしていたワケがわかった。とはいえ、勝はお茶屋遊びをしながら、芸妓の一人一人に万札を握らせていた。その所作がいちいち粋なのである。

さんざん遊んだ翌朝、朝からうどんすき屋に行くという。実は、まだ営業前なのに、朝から店を開けさせたのだ。総勢8名である。

うどんが出揃うと、勝がお手本を示す。日本酒を頼み、お猪口に注ぐと、そこに一本だけうどんを浸してチュルっと食べるのだ。なかなか乙なものだった。

夜は木屋町のトンカツ屋である。一行が二階の座敷に陣取ると、勝新がどんどん注文する。トンカツの他に、コキーユのグラタンも頼んでいる。旨いトンカツだった。

そこでまたお手本。「こうやって食べてみな」と言って、トンカツの上にスプーンですくったグラタンを載せる。私のトンカツ一切れの上にも、勝が手ずから載せてくれる。「旨えだろ」――それを食べる私を、嬉しそうに眺めるのだ。

異変が起きたのは、宴もたけなわとなったころだ。勝がいきなり立ち上がったかと思ったら、その場でズボンを脱いだのである。

なにごとかと一堂が虚をつかれていると、勝は白いパンツのままの格好で、ほかのお客がいる座敷も通り越して、廊下をずんずん奥まで歩いて行くではないか。

現在ならば、他の客にスマホで動画を撮られるような場面だろう。

みな、なんだなんだ、どうしたんだと無言で顔を見合わせている。

しばらくして、奥から勝の大声が聞こえた。

「おーい! 紙がねえぞお!」

一堂、ドッと笑った。

(※瀬戸内寂聴、森繁久彌の各氏との対談は、『勝新太郎対談集 泥水のみのみ浮き沈み』(文春文庫)で読むことができます)

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