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頭をポリポリ掻いて「いや〜、困っちゃうなぁ」。絶頂期のたけしすら絶句した勝新の話芸

社会人なら誰にでも、忘れられない、鮮明に記憶に残る仕事があるのではないでしょうか。成功や失敗から学んだこと、あるいは自身を導いてくれたメンターの教えなど、その経験があったからこそ、いまの自分があるのだと思います。
今回は、2021年3月に文藝春秋を定年退職し、現在は、業務委託の形で文春新書の編集をしているベテラン編集者の石橋(さん)に、「編集者として鍛えてもらった」という、いまの時代ではあり得ない、"破天荒”なエピソードを開陳してもらいました。

大スクープの担当

文藝春秋での編集者生活三十四年、その間に出会った忘れ難い天才たちのことを書いてみたい。

その筆頭にあるのは勝新太郎さん以外にはない。

若い方はご存じないかもしれないが、一九九〇年一月、勝新太郎はハワイに渡航する折に、パンツに隠し持った大麻とコカインの紙袋をホノルルの税関で見つけられ御用となった。

当時、勝プロダクションは乱脈経営のために倒産を経験していた。起死回生の一手として勝はキリンビールのCMに出演したが、製作に五億円を費やしたそれは、たった一日流れただけですっ飛んでしまう。もう大変な騒ぎである。

勝は逮捕されたその日のうちに罰金1000ドルで釈放される。日本に帰国すれば逮捕が待っていたので、勝は一年四カ月もハワイにとどまった。最終的に帰国すると、羽田空港でお縄となり、それをマスコミの大車列が追走した。さながら映画の一コマを地で行くようなものであった。

東京地裁での裁判の様子は、面白おかしくワイドショーやスポーツ紙が、事細かに報じたものだ。最終的に勝に下った判決は、懲役二年六カ月、執行猶予四年というものだった。

そんな勝が、『文藝春秋』で独占告白するというのである。無論、大スクープであろう。

編集長から担当を命じられた私はかなり焦った。なにしろ、私は三十を過ぎたばかりで、何の人生知も持ち合わせないただの小僧だったからだ。果たして、この仕事をちゃんと仕上げられるのか――。

もちろん、聞き手にはかねてから勝と付き合いのあった白井佳夫さんという映画評論家にお願いしてある。私の仕事は、告白が無事に進行することを隣で見守り、しかるのちに原稿にまとめることだった。

勝がまとう途方もないオーラ

会場は直木賞の選考会が行われる築地の料亭「新喜楽」にした。随分と大層な場所を選んだのは、この独占告白を編集部がいかに重要と見なしているかを先方に知ってもらうためである。

さて、取材当日、地に足もつかない感じで一行の到着を待っていた。迎える側は、白井さん、担当デスク、速記者、そして私である。

「お着きになりました」

という仲居さんの後ろから現れた人物を一目見て、私は衝撃を受けた。

わが身を強張らせていたのは、どれほど凶悪なモンスターが登場するのだろうという浅はかな先入観にもとづく緊張のためでもあった。

しかし、そこに現れたのは、羽織袴に身を包みたおやかに微笑む、ロマンスグレーの〝巨人〟としか形容できない人物で、「滋味」をその体全体から辺り一面に放射していた。まさに〝男惚れ〟とはこのことか。われわれはその魅力に一瞬にして呑み込まれたといえる。

おそらく勝にしてみれば、舞台での初手の「掴み」のようなものだったのかもしれない。

「滋味」を今風の言葉に置き換えれば、「オーラ」ということになろう。このオーラという言葉であるが、世間では安易に使いすぎるのである。その後年、取材で何百人もの人物ーー政治家、エラい学者、世界的な俳優、映画監督……に会うことになるのだが、今思い返してみても、勝新太郎に匹敵するほどの途方もないオーラには対面していない(……いや、俳優のモーガン・フリーマンと往年の大女優ジャンヌ・モローには勝新に匹敵するほどのオーラがあったような気もする。いずれにしても、超大物だけだ)。

そして、彼の挙措はじつに悠揚迫らざるものだった。畳の上に歩を進める姿からして、優雅なのだ。

少しだけ告白の現場を紹介してみる。

例えば、最初の取り調べのシーン。サングラスと帽子を取った勝を見て、取調官が驚く。なんだカツじゃないか。どうして先に言ってくれなかったんだ。俺はお前のファンなんだと。

白井 その時初めて気がついたわけなんだ、あなたが勝新太郎だって。

 俺も驚いたけども、捕まえた人も驚いたんだろうね。みんなファンでさ、俺に「ギルティ」って言った判事さんも、『座頭市』の大ファンなんだよ。そいだからずいぶんサインしたよ。(中略)
 向こうの裁判って、「関八州」みたいなもんでさ。何カ月に一回、回ってくるんだ。その日やらないっていうと、今度は何カ月後になるっていうんだよ。
 裁判長が入廷して席についたとたんに、俺はすっと立って、いきなり「アイム・ギルティ」って言っちゃったんだよ(爆笑)。

初出・月刊「文藝春秋」1992年6月号

聞くものを笑いの渦に取り込んだと思えば、口をとがらして拗ねてみたり、さては暴力的な迫力で自説を主張する。それはまさに勝新太郎劇場そのもので、われわれ聞き手は、展開めまぐるしい独白劇という暴風の中で翻弄されるちっぽけな葉っぱのようなものだった。われわれはただの観客と化した。「圧巻」のひと言である。

推敲の神業

さて、これからが私の仕事の本番だ。なにしろ、あの味わい尽くせぬほど豊饒な一本の演劇を、文字にできるかどうかである。とはいえ、締め切りも迫ってきたので、なんとか原稿に仕上げた。そして、勝プロダクションに原稿をFAXした。

やれやれと思った一時間後、編集部に電話が来た。

「あー、石橋さんかい?」

しゃがれ声の勝本人だった。

「あのね、俺はこんな喋り方はしないよ」

これはほとんど全否定に等しい。

その瞬間、かなりショックを受けた。しかし、私はまだ勝という人物を甘く見ていたのである。労作を仕上げたという多少なりの自負もあった。

「いや、いや、勝さん、文字に関してはですね、こちらに任せてもらえませんでしょうか。餅は餅屋ってこともありまして……」

「まあ、いいから。ちょっとこっちに来てごらん」

少し脇道に逸れるが、雑誌の原稿というものについて説明しておきたい。

それは会社の流儀によるのだが、文藝春秋という会社は社員に原稿を書かせる会社である。対談のまとめ、週刊誌の記事、その手のものはだいたい社員が書く。ほかにそういう文化を持つのは「週刊新潮」ぐらいであるが、こちらはデスクという文章の専門家のような人間が執筆する。ほかの社などは、社外のアンカー(プロのライター)に委託することが多い。

ゆえに、わが社には、筆が立つ先輩がたくさんいた。古くは社長の池島信平に著書があったし、立花隆さんも社員時代から達筆で、歴史探偵の半藤一利は社員時代から社内外で作品を出していた。

で、対談のまとめや聞き書きであるが、これがなかなか簡単ではない。想像してもらいたいのだが、人の話はあっち行ったりこっち行ったりの連続で、理路整然とはほど遠いことがほとんどだ。雑誌が読める原稿に仕上がっているのは、書き手の力量によるのである。

その点において、わが社の〝教育〟は厳しかった。それは素材をそのまま出すのではなくて、一度咀嚼してから、誰でも分かるように書き下す技だ。だから、他社の雑誌を読むとき、なんだこの分かりづらいひでえ文章はと思うことはしばしば起きるのである。

余談であるが、私の記憶では、編集者が何の苦労もなく、喋ったことがそのまま文章になったのは、文芸評論家の江藤淳氏くらいだったように思う。

さてさて、なんだよ~と思いながら、六本木交差点裏にある勝プロダクションまでタクシーを飛ばした。たしか、夜八時ぐらいだったろうか。

勝はソファーに座っていた。私の顔を認めると、

「腹は減ってないかい? タンメン食べる? ここのはうまいぜ」

申し出を辞すると、本題に入った。

「さっき、餅は餅屋とか言ってたね」

思わずドキッとする。

「まあ、聞いててごらん」

と言って、原稿を冒頭から読み上げはじめた。

「あのね、文章というのは音なんだよ。俺がこんな語尾で話したかい? そうじゃないだろ」

と言って、一字一句を変えはじめた。

最初は内心ムッとしていた私だが、彼の口述を聞き、必死に書き留めはじめてすぐに、凡庸な原稿がみるみるうちに血のかよった生々しい肉声に変化していくことに気づいた。しかも、勝が読み上げている原稿には、鉛筆の跡ひとつもないことにも気づいた。ソラで原稿を推敲しているのだ。

「あんたは文章を目で読むだろ。オレはさ、耳で読むんだよ」

「ここでこの話をするんじゃないんだよ。これは後でこっちが先だろう?」

構成もどんどん変える。相手の白井さんのセリフは変えないが、場所をどんどん変える。

そんな感じで三時間余り、原稿の余白はまさに真っ赤。いじられていない文章はほとんどない。

すぐさま会社に戻って、アカをすべて打ち直してプリントアウトしてみた。

一読してみて、

「こりゃ、すげえ」

感動で背中がゾクゾクした。そしてグゥの音も出なかった。そこには完全無欠な一本のお芝居があったのである。

後で知ることになるのだが、考えてみれば当たり前のことだった。例えば勝が監督をした一連の座頭市映画をとってみても、この脚本を仕上げるのに、勝は脚本家と一緒に何カ月も籠もる。それに較べれば、こんな原稿は朝飯前もいいところだ。

しかも、勝新は根っからの創作者(クリエイター)であったから、仕事を何年もしていなかったせいで、創作欲のマグマが噴火寸前まで溜まりまくっていたのである。勝が原稿を直しているときに感じたのは、烈火のようなエネルギーのほとばしりだった。

翌日、編集長も一読するなり、「これは面白い!」と大コーフンである。編集長はその人格はともかく、文章はとても読める人だった。ときには提出した原稿が真っ赤になって戻ってくることもしばしばあった。その編集長が一発OKしたのであるから、勝の手練がいかに優れたものであるかは明白である。

私は後年、立花隆さんとも密に仕事をするようになるのだが、仕事上で無限大の敬意を覚えたのは、勝さんと立花さんである。原稿をこっぴどく直された経験があるのも、勝さん以外には立花さんだけだ。

さて、件の原稿は『わが「パンツの中の真実」』と題されて、評判を取った。

絶頂期のビートたけしを迎える

この独占告白があまりに面白かったために、勝新太郎さんがホストになって『文藝春秋』で連載対談を企画することになった。

最初の相手はテレビタレントとして頂点にあったビートたけしである。当時の彼は凄かった。口も頭も今の一〇〇倍以上は回っていたし、そのポジションに関しては、現在の松本人志よりも権勢があった。

対談はホテルオークラのスイートルーム。先方はたけしとオフィス北野の森社長。こちら側は勝さんがいろんな人に声をかけたもんだから、もう把握できないほどの人数に膨れ上がっていた。二人が座るソファーセットを観客が二重三重に取り囲む形となった。

対談がはじまった。

いや、これが、対談というよりも、またしても独演会なのである。

対談のホストであるから勝もたけしには気を遣った。しかし、たけしは、勝の〝振り〟を受けることができなかったのである。

私が勝の対談に二度目に立ち会ったこのときこそは、勝の真の姿を見たといってよい。歌舞伎で勘九郎(当時)を真似たかと思えば、志ん生を即席でぶつは、長唄も新内も映画の引用も縦横無尽なのである。芸は血となり肉となり、そこに借り物はひとつもない。彼自身が生きた芸の塊なのだ。教養が服を着て喋っているといってもいい。

たけしも直感は優れていたのだろう。ただただ圧倒されていた。ゆえに、何も喋れない。

たけしが返したことと言えば、「いや~」とか、「え~、困っちゃうな~」と頭をぽりぽりと掻くだけだ。わずかに意味のあることを言ったのは、彼がかねてから用意していた、勝という存在はワシントン条約で守らなければならない絶滅しかけた動物と同じで、国が保護しなければならない。それだけだ。

相手のセリフもすべて創る

さて、対談が終わって困ったのは私である。なにしろ、たけしのパートが「いや~」とか「え~」だけだから対話を構成できない。

仕方なく、たけしに時間を取ってもらった。NHKの番組収録が終わったあと、控室を訪ねた。そこで、勝の印象的なセリフを私が再現して、それに対するセリフを引き出すのである。四〇分ほど喋ってもらって私は引き上げた。

次に、勝のセリフにたけしのセリフをパズルのようにして組み立てていった。ああ、やれやれと思って、できあがった原稿をまたFAXした。

小一時間もすると、編集部の電話が鳴った。

「あー、石橋さんかい?」

前回と同じだ。

「あのね、この編集には愛情がねえなあ」

「あ~、そうでしたか」

さすがに私は前回のようなバカなことはいわなかった。

ちょうど勝が人間ドックに入っているというので、翌日に病室を訪ねることになった。

東急線の旗の台駅にある昭和医大の最上階の個室だった。

二十畳もありそうな病室に入ると、ド肝を抜かれたのは、部屋にいた人々の異様さにである。

まず、関取の高見山そっくりなモミアゲの巨漢が、ベッドに横たわった勝のふくらはぎをマッサージしている(この人は勝に惚れこんだプロ歌手とのことだった)。かと思えば、チョビ髭を生やした怪しげな小柄な人物が私にささっとコーヒーを出してくれる(この人は運転手)。傍らには、こっちが赤面してしまうぐらい可愛らしい二人の女性がちょこんと行儀よくソファに腰かけている(銀座のお姉さんらしい)。大仏さんのような立派な顔をしたダブルスーツの人物(この人は常務の大番頭)に、ジーンズを履いた鹿賀丈史のそっくりさん(これはプロデューサー)もいる。

この部屋はいったいなんなんだ。この人たちは病室で何をしているんだ。人間ドックで入院してるんじゃねえのかよ。

人は処理しきれないほどの情報を一気に詰め込まれると、呆けてしまうものだ。頭がひっくり返りそうになった。呆然としていると、勝が言った。

「あー、石橋さん。ここはね、逮捕前に金丸信が入院してた部屋なんだよ」

特別室だった。

で、そんなワケのわからない衆人環視の元、推敲ははじまった。

リクライニングベッドに横たわった勝の横に、机と椅子をしつらえてもらう。

またしても冒頭から、勝がすべてをいじりながら読んでいくのだ。私は例によって、単なる速記マシーンだ。

なにしろ自分でもうすうす感じてはいたが、今回は七転八倒しただけあって原稿の出来が悪いのである。とくにたけしのパートが後からの付け足しなので、何かしっくりこない。勝のセリフと噛み合っていないのである。

だから、勝は一読して、「編集に愛情がない」と見抜いたのである。したがって、勝は構成を完全に変えるし、たけしのセリフはすべて削除し、全部、創っていくことになった。

要するに、勝とたけしの掛け合いという戯曲を一から創作していくのである。

結局、すべてを直すのに一日三時間で、二日間通ったと思う。

これも余談であるが、ときどきさし挟まれる休憩タイムが面白かった。勝が、「ちょっと一服するかい?」と聞いてくる。もちろん病室でタバコが吸えるわけがない。「こっちに来てごらん」と二人で入ったのが、病室内のユニットバス。

勝は便器に座り、私はバスタブに座る。で、勝はシャワーでもうもうと湯気を立てる。そこでわれわれはタバコを吸う。吸い終わるや間髪入れずに換気扇をONにする。すると、タバコの煙は湯気とともに、全部外に出ていくではないか。

「こうやってな、ハワイのホテルでアレを吸ってたんだよ」

ニヤッとしながら明かしてくれた。

おそらく、勝新と二人きりで窮屈な個室に入って中学生みたいにタバコをふかした一般人は、私だけだろう。

勝のラストシーン

最後まで終えると、またしても会社に戻って打ち込みプリントアウトする。そこに出てきたのはまさに驚嘆すべき一つの作品だった。あまりにも面白いのである。

少し紹介してみよう。

 おい、たけし。「勝新さんの復帰は喜劇しかない」。喜劇とか言ってたけど、どんな役でこの俺を使う気だったんだよ。

たけし ……。

 だいたい、お前、この「使う」という言葉なかなか言えるもんじゃないよ。

たけし (うつむく)

 黒澤さんだって、「出ていただけますか?」って来たんだからな。どんな話なんだ。

たけし (やっと口を開いて)兵糧攻めされている人で、目いっぱい飢えている人でね、最後は自分は切腹するから許してくれっていう奴がいるんですよ、殿様で。その殿様をやってもらおうかなと思っていたんですよ……。

 (まるで興味を示さずに)執行猶予中に事件を起こすような話のほうがいいよ(笑)。お客が喜ぶ。
 六十年間の人生で、『座頭市』『悪名』『兵隊やくざ』いろんな映画作ったけど、自分が損するような映画作ってみたいな。当たるぜ、きっと。

たけし ……。

 損得ってえから。(中略)

 たけし、お前、ホントに俺を使う気か? 大変だよ。俺が使いきれないんだから。

たけし そりゃあ、大変でしょうねえ(笑)。「大変だ」って自分で言われちゃうと困っちゃう(笑)。

初出・月刊「文藝春秋」1992年7月号

こんな場面もある。

 俺のラストはどんなラストだと思う? 想像してみろよ。

たけし ……。

 こういうことがあった。ハワイの夜だよ。
『アイ・リメンバー・ユー』って俺の好きな曲が部屋中に流れてるんだよ。右手にブランデー、左手に毛染めを溶かしたコップを持って、バスルームで鏡を見ながら、歯ブラシで染めてたんだよ。
 きれいに染まったんで、ブランデーを一気に飲んだつもりが、毛染めの方を飲んじゃった。(ゴクリと生唾飲んで)「ああ、俺の最後は、こんなシーンだったのか……」って思ったね。死ぬのは……交通事故か? 喧嘩か? と思ってたから。
 明くる日、俺、医者とゴルフの約束なんだよ、朝八時に。それですぐ知ってる友達に電話したんだ。
「毛染め飲んじゃった。どうしよう」「飲んじゃったの!?  飲む前に電話してくれりゃ」って言うから、「飲む前なら電話なんかしないよ!」って言って(笑)、アイスボックスの中のワインとか、トマトジュースとか、ブランデーとか、テキーラとか、いろんなもんーー氷入れのバケツがあるだろ、あれに入れてガーッとかき混ぜて、ガーッと飲んで、もどそうと思ったら、音楽が聞こえてくるんだよ。その音楽に乗っていい気持ちになって、ばったり倒れて寝ちゃったんだよ。
 朝起きて、トイレに行こうと思ったら、ピューって水が出てさあ、ケツから。それでおしめをしながらゴルフ場に行ったんだよ(笑)。
 それでその先生に、「俺の知ってるやつが昨日、毛染めをちょっと飲んじゃったんだけど、大丈夫ですかねぇ?」って聞いたら、「そりゃ、大変だ! 入院しましたか?」「いや、入院してないんですけど……」「いま、何してるんです?」「何してるんですかねぇ」「あんなもの染めただけでも肝臓に悪いのに、飲んじゃったんじゃ大変だ」「じゃゴルフなんかやってられませんね」って言ったら(笑)、首を横に振って「もう、ダメだ」みたいな顔をしたから、パッとスイングすると、ピュッと音がするんだ。球を打った音じゃないよ。おケツから音が出てるんだよ(爆笑)。

初出・同上

余談になるが、対談が終ったあとで、テレビでたけしの番組を見ていたら、上のシーンをたけしが再現していた。「勝さんに会ったんだけどね、ハワイに行ったときに毛染めを飲んじゃって大変なことになったらしいんだ。そのままゴルフに行って、クラブを振るとビュッと音がする。ケツから音が出てんだよね。バッと振って、ビュッ! バッと振って、ビュッ!」と何回もやって笑いを取っていた。

なんだよ、そのシーンを雑誌より先にテレビで使うのかよ。しかも、自分は借りてきたネコのようだったにもかかわらず、身振り手振りをまじえて元気いっぱいだ。そんな場面だけを取り出して、勝新という〝偉人〟を尾籠なお笑いネタへと落とし込んだことに対して、私は憤りを感じた。

こうして類を見ないほどの傑作が出来上がったのはいいのだが、問題はたけし側がどう判断するかである。なにしろ、たけしに成り代わって、たけしのセリフをすべて勝が作っちゃったのだから。確実にモメるに違いないと予想していた。

しかし、それは結果を先に言えば、杞憂に終わった。さすがに一時代を築いたオフィス北野の社長である。

原稿を読み終えていた森さんは、電話口で私にこういった。

「今回は、たけしの完敗です。原稿はこれで結構です」

「えっ、じゃ、直すところは?」

「このままで構いません」

対談につけられたタイトルは「だから我らは嫌われる」。たけしの著書『だから私は嫌われる』をもじったものだ。これまた大評判であった。

この素晴らしい〝対談〟は『勝新太郎対談集 泥水のみのみ浮沈み』(文春文庫)で読むことができる。

その後の連載の相手は、三國連太郎、瀬戸内寂聴、石原慎太郎、森繁久彌、津本陽、中村玉緒と続く。一年ほど勝さんとは付き合ったことになる。

三回目の原稿からは、勝さんは手を入れなくなった。勝新の言うところの「セリフの間」というものが身に着いたせいかもしれない。いずれにせよ、編集者稼業をしていく上で、勝新は私にとってのメンターだった。文章とは「呼吸だ」「息づかいだ」ということを教えられたように思う。

もう一つ、彼との仕事の副産物は、その後、誰に会ってもちっとも物怖じしなくなったことである。真に偉大なる者は、人を緊張させないものだし、イヤな気持ちにもさせないことを勝新が教えてくれたからだ。その逆に、威圧したり威張り散らしたりする相手の場合、それがどんなにエラい人物であったとしても、「なんちゅう小者や」と心中つぶやけば、なんてことないのである。

【後輩から一言】
この原稿を石橋さんにお願いしたのは、定年退職にあたって社内報に記された「退職のあいさつ」がきっかけです。石橋さんが在職時代に経験した、社員や筆者、取材相手とのドタバタ劇が描かれたあいさつ文で、七転八倒しながらも編集者生活を謳歌してきたことが伝わってくるその内容に「うわぁ、楽しそうだな!」と思わず声を上げてしまいました(このなかに今回の勝新太郎さんのエピソードも盛り込まれていました)。
そこで、「このあいさつ文をたたき台にして、noteで『文藝春秋の奇人変人』をテーマに記事を書いてもらえませんか?」と依頼したところ、「書けねぇことばかりだなぁ。それに、社内の人間のことを書いても知らない人は興味ないんじゃないかな。でも、勝さんのことなら書けるかも」となり、今回、記事を公開する運びとなりました。昭和の香り満載の、平成初期の時代を笑って読んでいただけたらと思います。
なお、「文藝春秋の奇人変人」も読んでみたいという方がいらっしゃいましたら、月刊「文藝春秋」の最終ページに載っている「社中日記」をご覧ください。毎月社内で起こった珍事や怪事件が暴露される名物コーナーです。(文春新書note担当・織田)

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