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資料室の3大ボロボロ本を探しに行ったら、想像の斜め上を行く1冊に出合った話

きっかけは編集長の一言

文春新書編集部では今年の2月に逝去された石原慎太郎さんの追悼ムック『石原慎太郎と日本の青春』を編集、刊行しました(2022年3月刊)。

今回のお話は、このムックの編集作業中に編集長が漏らした一言から始まります。

「慎太郎さんの資料を集めていたら、本誌(社内では、社の看板雑誌である月刊「文藝春秋」をこのように呼んでいます)の〈太陽の季節〉のページがこなこなになっていた。繰り返しコピーされてきたからだね」

「太陽の季節」と言えば昭和30年(1955年)下半期の芥川賞受賞作品で、「太陽族」「慎太郎刈り」のブームを生み出しました。そして、この作品が掲載された本誌は話題を呼び、一躍、国民雑誌の地位を築くことになります。石原さんご本人も「本誌を有名にしたのは俺だ」といった趣旨の発言をされていたほどです。

何度も論考を寄稿したり、対談に登場したりして、文春と関係の深かった石原さんですから、「太陽の季節」が多くの人の手に取られてきたのは頷けます。

すると、編集長の横にいた局長(文春新書編集部は、ノンフィクション・新書出版局の傘下に位置しています)が、ボソッと言いました。

「〈角栄研究〉もボロボロだよ。俺、何度もコピーしたもん。俺くらいの年次の編集者ならみんな一度はコピーしているんじゃないかな」

「角栄研究」とは、ジャーナリストの立花隆さんが、昭和49年(1974年)に本誌11月号で発表した「田中角栄研究 その金脈と人脈」です。当時の田中角栄首相の金権政治の実態を明らかにしたこの作品は、「調査報道の金字塔」と言われ、その後のジャーナリズムのあり方に大きな影響を与えました。なお、立花さんも2021年4月にお亡くなりになっており、追悼ムック『「知の巨人」立花隆のすべて』を文春新書編集部で編集、刊行しています(2021年8月刊)。

局長と編集長のやり取りを聞いていて、文春を代表するお二人の記念碑的な記事はどれほどボロボロになっているのか? さらに、2つあるなら3つ目もあるのでは? そんな疑問が頭をよぎります。

そこで実際に資料室に行って「3大ボロボロ本」を探してみることにしました。

さすがの二大巨頭

さっそく資料室に到着すると、しばらくして、お目当ての2冊を発見しました。

まずは、「太陽の季節」を見てみましょう。

月刊「文藝春秋」1956年3月号。確かに粉をふいたように「こなこな」になっていました。

ページが切れてしまっていたり、端が寄れていて、何度もページがめくられてきたことがわかります。

では、「角栄研究」はどうかというと――。

月刊「文藝春秋」1974年11月号

こちらもページが取れてしまっています。全体的な損傷の度合いを見ると、「角栄研究」のほうがボロボロでした。また、記事になった時期が、「太陽の季節」は昭和30年、「角栄研究」は昭和49年であることを考えると、後者のほうがよりコピーされる頻度が多かったと言えるかもしれません。

様相の違う一冊に貼られた注意書き

では、このツートップの向こうを張る記事はあるのか? 本誌の棚をうろうろしていると、他とは違う様相の一冊がありました。

それがこちらです。

月刊「文藝春秋」1993年3月号

一見すると全くボロボロではないですが、「注意!!」と書かれた紙を見てください。

衝撃的な注意書き

そこには「崩壊」の二文字が! コピーする人が多すぎたため、もはや当初の閲覧本がないというのです。

注意書きにも書いてあるとおり、コピーの対象となった記事は、雅子妃に関するものでした。当時の皇太子と雅子妃のご成婚に際して、ご両親の小和田恆さんと優美子さんに語っていただいた内容です。いまも昔も皇室に関する国民的関心が高いことがよくわかります。

月刊「文藝春秋」創刊号のオリジナルはどこに?

3大ボロボロ本が眠っている資料室は社の財産を守っている部署です。そこで、普段から編集者・記者がお世話になっている資料室の責任者に話を少し聞いてみました。

「この3冊だけでなく、繰り返しコピーされて傷んでいる雑誌は他にもあります。テープで留めるにも限度があるから困っているんです。地下の倉庫には、もう一冊ずつ本誌が保管されていて、なかにはアルコールで拭いて封筒に入れ、劣化を防ぐシートで覆っているものもあるんですよ。資料室は保管するだけでなく、手入れをするのも仕事の一つ。(本誌のアーカイブ化も進んでいるけど)当時の現物が残っていることに意味があるんです」

話を聞くなかで驚いたのは、月刊「文藝春秋」創刊号(大正12年[1923年]1月号)のオリジナルは、経理部の金庫で大事に保管されていることでした。「社のご神体みたいなもの」だそうです。

月刊「文藝春秋」創刊号(大正12年[1923年]1月号)のレプリカ

資料室がなければ仕事が始まらない

いかがだったでしょうか? 文藝春秋は今年で創立100周年を迎えます。その時間の経過を感じてもらえたらと思い、今回この記事を書きました。なかでも3大ボロボロ本は社の歴史のなかで燦然と輝く遺産と言えるでしょう。

編集者や記者が仕事を始めるときにまず取り掛かるのが資料の収集です。当然、資料室に行って過去の雑誌記事や書籍をコピーします。つまり、資料室がなければ仕事にならないのです。普段は何気なく利用している資料室ですが、文春の歴史を支えてきたことを改めて感じさせる探検となりました。

地下倉庫に潜入

最後に地下にある倉庫を少しだけ写真でご紹介したいと思います。こちらもご興味があればご覧ください。

地下倉庫の入口。社員でもめったに入ることのない場所です。
本誌が保管されている棚
戦時中の本誌。紙不足のためページ数を減らして刊行していました。確保できた紙はトラックに乗せて、何か事故が起こらないように社員が全身で覆うようにして運んだそうです。
戦後の本誌。ページ数が多くなっていることがわかります。
戦時中は英語を使用できなかったため、「オール讀物」は昭和18年(1943年)9月から「文藝讀物」と改題して、刊行されていました。


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