見出し画像

「わたしも憂き世を生きているのだ」“内向的で暗い”イメージの紫式部が『源氏物語』で見せた“名誉挽回”

紫式部とはどんな人だったのだろうか。いったいどうして『源氏物語』のような大作が生まれたのか。
セクシュアリティと権力の観点から平安文学を読み解いてきた日本文学研究者の木村朗子さんが、紫式部と同時代を生きた男たちの実像を通してその歴史を描いた著書が『紫式部と男たち』だ。同書から、一部を抜粋して紹介する。(本記事はCREAweb掲載記事の再掲載です)


紫式部の評判

 紫式部は、彰子サロンに軽妙な会話を楽しむような気風がないことをつまらなさの原因だとしているにもかかわらず、あんなにも楽しげな定子サロンを盛り立てた清少納言については、つまらないことを大袈裟に言い立てただけの軽薄な人だと貶める。しかし、そもそも紫式部自身はおもしろい人だったのだろうか。一般的に、清少納言は外交的で明るい性格、紫式部は内向的で暗い性格だというイメージがある。

『枕草子』で清少納言が世を憂う姿は、ほとんどみられない。例外的に「殿などのおはしまさで後、世の中に事出で来」ではじまる章段で、道隆の死後、清少納言は、女房たちに道長方と親しいと陰口をたたかれて、里にこもったことが描かれている。定子を裏切ったかのような噂が立ったのは、中宮彰子の立后を促し、道長の栄華のための片腕となった行成と仲が良かったせいもあったにちがいない。あるいは道長から直接のヘッドハンティングがすでにあったのかもしれない。ともあれ、定子の周辺は道隆の死後、政変で揺れていた。

 一方、紫式部は、道長の政権が安定していたころに女房出仕し、中宮彰子が里邸で男児を出産したというのに、どういうわけか鬱々としているのである。まもなく天皇が彰子の里邸にやってくるというので、どこもきらびやかに整えられている。夜明けに庭をながめれば池に水鳥が遊んでいるのがみえる。

水鳥を水の上とやよそに見むわれも浮きたる世をすぐしつつ

 水鳥が水の上に浮いているように、自分も浮き世に生きている。水鳥は浮かんで遊んでいるようにみえて水の下では水をかいているのだから実のところ身は苦しいのだろう。それに似て、わたしも憂き世を生きているのだ、という歌である。この映えある日々にいったいなにを悩んでいるのだろうかと思わざるを得ない。

紫式部のユーモア

『紫式部日記』の紫式部像はどうみても陽気な人にはみえない。中宮彰子付きの女房たちも紫式部のことを「こちらが気後れしそうなほど優美で、近寄りがたく、よそよそしくて、物語を好み、気取っていて、なにかというと歌を詠み、人を人とも思わず、憎々しげに人を見下すような人だろうと噂していたのに、おどろくほどおっとりしていて、本当に紫式部なの? と思ったほどだ」と言っていたと書かれている。
 物語を読んでの前評判でもすこぶるとっつきにくい人柄だと思われていたらしい。ひょっとして中宮彰子のサロンが陰気なのは、紫式部が陰気だからではないのか。そんな疑問もわいてくる。紫式部の名誉挽回は、『源氏物語』のなかでなされる。
『源氏物語』で光源氏が中の品との恋の冒険にくり出すきっかけとなる男たちの恋愛談義、雨夜の品定めに、藤式部丞が語った博士の家の娘との恋愛譚がある。藤式部丞がまだ学生だったころ、ある文章博士を師とあおいで学問をしに通っていて、その博士の娘と懇ろになった。男女の睦言を交わしたあとにも、身についた学で政治の心得などを教えてくれて、消息文も仮名を書き混ぜることなく、格式ばった言い回しで書いてよこす。
 この女を師として漢詩文の作り方なども習ったから恩は忘れていないけれども、家庭的な妻にするには、自分のような学のない者では窮屈なばかり。だんだんと足が遠のいたが、久しぶりにもののついでに立ち寄ってみたらば、いつものように迎え入れてはくれなくて、隔てをおいて応対される。聞けば風邪をひいて熱冷ましの草薬(ニンニク)を飲んだから臭いので対面できないというのだ。女はこの臭いが消えた頃また立ち寄ってください、と言った。男は歌を詠む。

ささがにのふるまひしるき夕暮れにひるま過ぐせと言ふがあやなさ

 ささがに(蜘蛛)が動きだしたら男の来訪があるといわれているように、来訪の予感があったはずの夕暮れにひるまを過ぎたら来いといわれて追い返されるのはむなしい、という歌。「ひるま」には、「昼間」とニンニクの臭いのする間を意味する「蒜間」とがかけられている。女の返歌。

『源氏物語』のなかの滑稽譚

逢ふことの夜をし隔てぬ仲ならばひるまも何かまばゆからまし

 逢うことが夜を隔てず毎夜のことであるような仲ならば昼間/蒜間に逢うのをまぶしく恥ずかしく思ったりはしない、という歌。さすがの即答でしたよ、と藤式部丞が語り終えると、うそばっかり! 出来すぎだぞ、と皆は笑った。
 紫式部は、父や兄弟が式部丞で、女房名を藤式部と呼ばれていたらしいのである。この学者の娘の設定は限りなく紫式部自身に近い。自分によく似た才長けた女を出してきて、ニンニクで臭いから会えないなどと無粋なことを言わせ、学者の娘ってこんなふうと下げてみせているわけである。
 光源氏の恋人たちのなかにも、笑える人物がさまざま登場し、滑稽譚がくり広げられもする。末摘花は、故常陸宮の娘で宮家の姫君なのだが、古い価値観を引きずっていて古風というよりもはや古臭いといいたくなるほどの人である。顔立ちもまずく、いつも寒々しい格好をしていて鼻の頭を真っ赤にしているので紅花を意味する末摘花と呼ばれている。父宮が残した由緒正しき和歌の作法の本で学んだとおりの歌を詠み、衣のやりとりの際には、「唐衣」と涙で袖を濡らすという和歌ばかりを送ってくるのである。

唐衣君がこころのつらければたもとはかくぞそぼちつつのみ
 着てみればうらみられけり唐衣返しやりてん袖を濡らして
 我が身こそ恨みられけれ唐衣君が袂に馴れずと思へば

 いずれもあなたがつれないので涙で袖を濡らしていますという歌なのだが、光源氏は「古代の歌詠みは、唐衣、袂濡るるかことこそ離れねな」(古風な歌詠みは、唐衣、袂が濡れるの恨み言から離れられないのだね)と評し、最後にはあきれて次の返歌を詠む。

唐衣又唐衣から衣かへすがへすも唐衣なる

 思わず吹き出してしまうような歌である。この歌は結局、末摘花には送らずじまいになるから、光源氏の嘆きの歌は読者を楽しませるために用意されたものだ。光源氏のこの歌が出てくるのは「行幸」巻で、物語の中盤の玉鬘十帖にある。玉鬘とよばれる女君は、光源氏が若い頃につきあったものの死なせてしまった夕顔の娘である。

 夕顔は、頭中将が雨夜の品定めで語った、娘をなしたのに、北の方ににらまれてどこかに消えてしまった女君である。光源氏は偶然にその女君と知り合って、たちまち夢中になったが、とある廃屋で夜を過ごしていたときに、夕顔はなぞの女の霊にとり殺されてしまうのだった。光源氏は、夕顔を思い出すよすがとして夕顔付きの女房を邸に引き取ったが、後年、この女房が偶然、娘を見つけてくるのである。娘のほうでは父親の頭中将(そのときは内大臣)に会いたいと思っていたのだが、どういうわけか光源氏のもとにひきとられ、困惑する。

 子どもが少ない光源氏は、世の父親がやっている婿取りというのをやってみたかった。そこで玉鬘の素性を隠して、男たちが次々と恋文を送ってくるのを吟味するのである。同時に、はかなく消えた夕顔の面影をたたえる若い娘に光源氏はときめいてもいる。しかし玉鬘を妻にしたところで、紫の上より上の扱いにはできまいし、なにしろ内大臣の娘なのである。玉鬘と結ばれるということは内大臣家に婿入りすることになる。それは真っ平御免なのだった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?