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道草(8)「ミニコミ新聞にハマルの巻」その2

 手書き自由形レイアウトの三鷹青年団体連絡協議会(青団連)の機関紙『またんぴ』は、各青年グループに配布されて青団連のPR紙の役割を担っていった。
 その効果は1974年(昭和49年)から始まった「みたか青年文化祭」の開催や「お月見キャンプ」「集中登山」などで、各グループから青年たちが集まって交流するようになった。
 特に、先祖代々三鷹に暮らしている地元青年団の青年たちと、地方から三鷹に流入してきた青年たちの交流ができたことが大きかった。青年団、勤労青年学級、アマチュア無線の会、山の会、コーラスの会、読書会などの代表が顔を突き合わせて青団連の活動について語り合い行事を行った。今から50年前の話である。

 この『またんぴ』を絶賛してくれた人がいた。日本機関紙協会の金子徳好さんである。日本機関紙協会は労働組合の機関誌や宣伝を支援するところで、主催する機関誌コンクールに出したら高い評価を得た。
 金子さんは三鷹の上連雀に住んでいて、妻の静枝さんはきりえ作家として教室も開いていた。金子さんはベトナム戦争に反対し、戦争が終わるまでの8年間「アメリカはベトナムから手を引け」というゼッケンをつけて通勤していたことでも有名で、1974年(昭和49年)朝日新聞社から『ゼッケン8年』という本も出していた。息子の金子修介さんは映画監督で、日活ロマンポルノ出身。『ガメラ 大怪獣空中決戦』で第38回ブルーリボン賞監督賞を受賞している。次男の二郎さんは脚本家である。
 その金子徳好さんと意気投合し、一緒に三鷹のミニコミ新聞を作ろうという話になった。そのメンバーにと紹介されたのが、井の頭に住む飯塚寛子さんである。飯塚さんは志賀直哉の姪で、当時は玉川上水を守る活動をしていた。この飯塚さんと金子さんと私の3人が、ミニコミ新聞『みたかきいたか』を創刊した。
 私がもうすぐ30歳になる1979年(昭和54年)の暮れのことである。

メールマガジン『ぶんしん出版+ことこと舎便り』Vol.31 2023/12/19掲載


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