パパ活にみる日本人の契約主義化

最近、日本では「パパ活」なるものが流行っているという。もしこれが真実ならば、日本はますます「契約国家化」してきているといえるであろう。

それはつまり、国家機構や国家構成員の関係性における利害や価値観の対立の存在が前提されるようになってきたということである。

ということは、私が考える理論に基づけば、パパ活が発展する一方で「水商売」が衰退するはずである。より正確には、店舗を用いて運営される男性向け水商売(キャバクラ)が衰退するかわりに、本来ならばその世界に関わっていたであろう人々が、パパ活(個人水商売)の世界に関与していくであろうと考える。

なぜなら、キャバクラというサービス(商品)の内容が曖昧な「水商売」はアジア圏(仏教圏)などの「非契約国家」=「国家機構および国家構成員の関係性における利害や価値観の対立の存在が否認される国家」でしか基本的には成立しえない商売だからだ。

その理由は、日本の国体=家族国家主義と深く関係している。(さらにその起源はヒンドゥー教の前身のバラモン教の教典に認められるが、その主題にはここでは立ち入らない)

日本は明治維新以降、家族国家主義的国家観念という世界観が国民たちの間で支配的であり続けた。そのため、国民たちはたとえ知らない人と関わることになったとしても、その相手が日本人である限り「家族のように自ら唱和する」ことが倫理的に義務付けられてきた。

となると必然的に、水商売のように相手と関わることそれ自体を「労働」と位置づけ、それによって金銭を得るという職業は非常に下賤な職業とされる。

なぜなら「接客代」なるものが発生するということは、接客した人(店員)と接客された人(客)のあいだには利害や価値観の対立が存在するということの現れであり、それは、この日本の国民同士の関係性が決して家族の如きものではないことを証明してしまうものであるからだ。

そのように、いわば「接客する」ことによって相手からお金を得るという行為や「接客される」ことによって相手にお金を渡すという行為が倫理的に否定されると、その正当性を得るために両者の間をとりもつ「第三者」が必要になってくる。つまりそれが「店」である。

要するに、ある男性(客)とある女性(店員)の間に店が介在すると、男性がいくら高額な金銭をその女性目当てに支払ったとしても、それは「女を買った」ことに形式上はならないし、女性も形式上は「自分を売った」ことにはならない。これは換言すれば、多くの日本人は「日本人同士の関係性は家族の如きものである」という社会的な虚構を維持するために、店という第三者に金銭を払ったり給料を中抜きされてきたといえる。

しかし、この構造が世界のグローバリズム化の影響を受け、特に倫理的な面において変容したのである。

つまり、日本人同士の関係性は日本人同士というだけで結局のところ「他者」である、ということの自覚が深まったため、自分を売ったり他者を買ったりすること自体の正当性が倫理的に認められつつあるのと同時に、倫理的な正当性の焦点はその契約内容に移ってきているのである。

となると必然的に、家族国家という社会的虚構を維持するための「店(第三者)」にお金を払う必要は無くなる。むしろ、その虚構を取っ払った方が客(男女)も店員(女性)も両者の利益が増す。したがって、最近の日本では「パパ活」という個人水商売が増えてきているのだと私はみている。

そしてこれは、日本人の自由主義化、法治主義化の一類型でもあるのだと私は考える。

ちなみに、今回の記事では「ホストクラブ」について触れなかったが、ホストクラブはキャバクラと構造や形態が似ているようで全く違うのでその詳細は後日記事にする。以上。


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