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古川雅士 アニメ編集家=古さんの事

フィルム時代とラッシュ
僕がグループタックにいてラッキーだったのは古さんの編集をずっと後ろで見る機会が何度もあった事だ。僕は当時制作進行のバイトだったので、編集が終わったフィルムをMAスタジオに届けたり、テレビ局用のポストに置かなくては行けない。昔からアニメ制作はみんなギリギリまで粘るからどのセクションもいつもギリギリになる。その中で編集という作業は一番最後に映像を完成させるサッカーのゴールキーパーの様な砦だ。みんなはもうデジタル時代の子だからフィルムというものを見る機会はないかもしれないが、小さなセルロイドの絵がいくつも並んだ帯状の物体だ。40年前はこのフィルムを切ったり這ったりしながら手作りで編集は行われていた。
フィルムを切り、繋げ、一本の映画にする。虫プロの編集マン=古川雅士こと古さんは、アトム、W3から銀河鉄道の夜、タッチ、ナディア、まんが日本むかし話、そして僕がCGやった「グスコーブドリの伝記」など無数のアニメ作品を手掛けた。古さんの歴史はアニメの歴史そのものといっていいほどだ。

 割と怖い人が多かったタックの先輩の中では何故か僕ら若手にやたら優しく接してくれたのも古さんだった。たった一人でいつもゴールキーパーの様にアニメの最後の作業をもくもくとタックの狭い編集室の閉じこもってたのも古さん。
バチンとフィルムを切る。
バチンとフィルムをつなげる。
僕は古さんのこんな背中を夜通し見ていた。

昔はなしの制作チーフのTのパワハラで毎日の様に泣かされた僕は作画の江口まりすけ先輩や古さんのいる編集室になぐさめてもらいによく行っていた。だから僕は古さんとよく雑談をしたものだ。
当時はアニメ映画だけでなくテレビアニメもフィルムで作っていて、音のないラッシュ上映とかをスタジオ内でやったりする。カタカタと映写機の音がする映写室で僕ら若手はラッシュを見てパカ(仕上げの塗り間違え)なんかを発見しなくてはならない。
今思うと、ひとつひとつが手作りで、感動的だった。本当に忙しかったけどラッシュで田代社長や古さんや杉井監督と並んでじーっとフィルムを見る20分は今思うととても感動的だった。タックは若手にも割と発言権があって、監督からもどう思ったか聞かれる事も多かった。

ビデオ時代への移行
1980年代世の中はフィルムからビデオというものに移りつつあった。放送業界がどんどんフィルム編集からビデオ編集に移行をはじめた。効率や価格面でビデオは圧倒的に優秀だ。
インチからD2、ベータカムといったビデオデッキが編集や放送では使用される機会が多かった。ビデオ編集という技術の投入はテレビ業界を大きく効率的にした。やり直しに時間と金がかかるフィルムに比べ、ビデオは何度でも編集できるし、なにしろ素材の使いまわしなんかも容易であるし、トランジション(カットとカットを繋ぐ効果)なんかもフィルムとは別物の新しい表現が可能になった。
たがアニメ作品にはテレビ局や代理店との「契約」という物が存在していたので、例えばタックでやっていた「まんが日本昔はなし」なんかはビデオ時代が到来しても長い間フィルムでの納品が必要だった。
 ビデオに反発する声も聞かれた。「フィルムの粒子がか感じられない、フィルムでないアニメはもうアニメではない。いや実写も同じくだ。」こんな声もあったが、時代は強制的に移行していった。

ブン「昨日、NHKでビデオ編集の現場見てきましたよ。巻き戻したら何度でも見れてすごいと思いました」
古さん「そだな~便利なんだろうね。でも俺はビデオの時代が来たら引退だな。あれはちょっと違うんだ」
古さんの横顔はどことなく寂しそうだった。
ビデオの時代が来たら俺は引退する。そんな職人の信念通りに古さんは現場から消えた。

アニメソフト開発
1995年頃、僕はわずかな人数でスタートしたベンチャー会社で某アニメデジタル化ツールを開発をはじめた。アニメを大幅に効率化、少人数化を狙ったツールだ。僕はいつかアニメやコミックはパソコンで創る時代が来ると信じて、この事業にのった。アニメの低賃金化をも解決できると思ったし、何よりもデジタル化する事による表現の幅は飛躍的に増えると思った。さらにこの頃から僕は3DCGをそのベンチャー会社の社長から教わり始めた。アニメがデジタル化し、3DCGとコラボを組む日がきっと来るんじゃないかと未来予測をし、このコラボに胸をときめかせた。この時期僕はツール開発とCM制作に夢中になっていた。毎日どうしたらセル(アニメの絵を描くためのセルロイドの板)を排除出来るかを考えていた。だがアニメ屋が使えなくては何の意味もない。僕はタイムシート、トレース、仕上げ、撮影といったアニメの工程を徹底的にシミュレーションするためにリサーチとUI設計を始めた。開発というのはまったく金にならないので、その資金は社長とTVCMを作って稼いでいた。まだPCで動画を再生する技術はなくベーカムで1枚1枚をコマ撮りするというった作業でCG映像を創り続けた。この頃はまさにビデオ全盛期でベーカムを持っていないと仕事がない時代だ。ベーカムデッキは安いやつでも1台500万円ほどした。古さんに関してはその期間はまったく連絡をとってなかった。

QuickTimeの誕生
Apple社のMacというパソコンとの出会いで人生は変わった。大学で使ってたPC98とは別物のグラフィック性能、美しいフォント、こんな世界があるのかと驚いた。僕のいたベンチャー企業もAppleのデベロッパー(Mac向けのソフトを開発する会社や個人)だった。僕らは新しい技術を一般ユーザーより早く入手できたし、直接Appleに質問も出来た。ある時、QuickTImeという新技術が投入された。100ドットくらいの今から思うとめちゃくちゃ小さなサイズの枠の中でスティーブ・ジョブズが話していた。
ブン「うおおおおおっすごい!パソコンで映像が再生されている!スライダーで巻き戻せる!なんだこれは!?」
僕は興奮気味にK社長の肩を揺らした。
K社長「そうなんだ。ひょっとしたら我々の想像より早くビデオコマ撮りの時代は終わるかもしれないね」

ビデオ時代の終焉と復活の古さん
 2年ほどいたそのベンチャー会社を僕はある時飛び出した。今思うとこれも人生の分かれ道だった。一人で自分の作品を創る事にした。その傍らいろんな雑誌でCG関係の連載を始めた。日経CG時代に久しぶりに古さんに電話した。
もちろん携帯のない時代なのでタックに電話した。懐かしい古さんのインタビュー記事を書こうと思ったからだ。虫プロ時代から昔のフィルム編集の経験談はきっと良い記事になると思ったからだ。編集スタジオはベータカムからデジベ(デジタルベータカム)に移行していたが、時代はパソコンで映像編集をするソフトがどんどん主流になっていた。僕はパーセプションビデオレコーダーによるリアルタ一ムレコーディングを主力にしていた。

応対してくれたタックの桜井Pに古さんの連絡先を聞くつもりだった。
「ブンくん久しぶりだね~古さん?いやうちにいて編集してるよ」
なんと古さんは元気に編集しているとの事だった。ビデオの時代が来たら引退すると宣言した古さん、いったい何があったのだと僕は懐かしいタックn駆けつけた。
あの編集室には最新のノンリニア編集システムAVIDが装備されていた。
ブン「ふ、古さん!AVIDでやってるんすか?」
古さん「いやそうなんだよ。これさフィルムといっしょなんだよね」
ブン「ああそっか、確かにノンリニアはフィルム編集に近い」
古さんはものすごいスピードでキーボードを叩いて編集をしていた。
ブン「パソコンなんて触るの嫌がってたじゃないですか?どうしたんですかその華麗な手さばきは」
古さん「んん?誰にも習ってないよ?独学独学。だっていっしょなんだってばフィルムと。使い方なんて別にたいして難しい事はないし、やれる事は増えたからね。すごい楽しいよ」
古さんの笑顔はいつも子供みたいだった。

僕はその時、なんだか本質とはやはり道具ではないと突然思った。道具が変わっても古さんの創るアニメは一流だ。一流なのは才能ではなく好奇心なんじゃないかと思ったりもした
その後、古さんは「あらしのよるに」などの大ヒットアニメ映画をデジタル編集し世に送り出した。

僕はアニメやコミックのデジタルツールを世に送り出した戦犯の一人かもしれない。大勢のアニメスタッフがこの世界から消えたのは僕のせいかもしれない。だが進化にはこうした復活もあるし、本質が損なわれるものではない。
それは現在のAIの時代でも同じだと思う。どれだけ道具が進化しようが本質は変わらないし、感動は変わらない。そんな事を古さんは改めて気が付かせてくれた。
僕は伝説のアニメ編集マン古さんを尊敬してやまない。僕にアニメの多くをご教授いただきありがとうございました。
その血は僕に、そして僕の生徒たちにも受け継いでいきます。



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