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【本】平谷美樹「でんでら国」感想・レビュー・解説

『でんでら国の爺婆たちは、生き生きと生き、そして生き生きと死んでいく』

これは理想的だな、と思う。
もう少し具体的に書けば、「死の直前まで、自分に役割がきちんとある」ということが、人生の理想ではないか、と思う。

金があって時間があれば楽しい、なんて思ったことは、たぶん一度もない。金があって時間があっても、退屈なだけだ。金があって時間があるというのは、なんでもやりたいことが出来るということだが、同時にそれは、やらなくてはならないことが何もない、ということでもある。

そんな人生、面白くないだろうなぁ、という感じがする。

いくら金と時間があっても、自分がそこにいる意味を感じられなければ、どれだけ外面的に豊かな生活をしていようが、たぶん退屈だと思う。

とはいえ、そんなことは豊かになったから言えることでもある。食べるものを作り出すので精一杯だったような時代には、そもそも「自分がそこにいる意味」が云々などという話はまるで意味をなさないだろう。そんなことを考えている余裕なんてない、というのが正解のはずだ。

だからこそ、「でんでら国」の存在が、より一層凄みをもって感じられるのだ。

「でんでら国」には、爺婆しかいない。しかし彼らには、「自分がそこにいる意味」がきちんと理解されている。全員ではないが、少なくとも一つの共同体として共通の考え方が共有されていて、それが隅々にまで浸透しているのだ。

だからこそ、「生き生きと生き、そして生き生きと死んでいく」などということが実現されるのだ。

人生の最後に、自分がどんな役割を担うことが出来るか、あるいは自分に担える役割などないのか、それは晩年になってみるまで普通は分からない。しかし、「でんでら国」を有する大平村では、60歳になれば必ず「でんでら国」へと行き、そこで大事な役割を担うことが決まっている。それは、人生に張りを与える素晴らしい仕組みだなと思う。

「でんでら国」は、お上を欺くためという、後ろ向きな動機から生まれたものであることは間違いない。しかし、そうやって出来た「でんでら国」は、ある意味で桃源郷、理想郷としての性格を備えることになった。どれほどの理想がそこにあるのか―、それは本書を最後まで読むと理解できる。ある男のまさかの行動が、「でんでら国」がいかに素晴らしい環境であるのかを十分に理解させるのだ。


現代日本は、世界に先駆けて、超高齢化社会への道を進み続けている。そういう社会にあって、この「でんでら国」のような共同体のあり方は、何か可能性を示唆するものとして捉えられるべきではないかと思った。

内容に入ろうと思います。
幕末の東北、陸奥国八戸藩と南部藩に挟まれた大平村には、60歳を迎えた者は皆、すべての役職を解かれ、御山参りをする習わしがあった。御山参りとは、山へと分け入っていって二度と郷へは戻ってきてはいけない、というものだ。大平村のこの慣習は、姥捨てだとして近隣の村から嫌われていた。親の面倒を見なければ罰せられるという法律があったこともあるが、しかし近隣の村では飢饉になると、子どもを殺すのだ。そういう時代である。
善兵衛は、60歳となり、<知恵者>としての役割も終え、御山参りへと向かうことに決めた。<知恵者>とは、「あっち」と呼ばれている「でんでら国」の問題を解決するための役職であり、善兵衛は若い頃から「でんでら国」の秘密を知っていた。大平村の者は、60歳を超えると山に入るが、姥捨てとはまったく違い、山奥にある「でんでら国」で新しい生活が始まるのだ。そこでは開墾された土地で米が作られており、飢饉の折には大平村を助けたりもしている。
一方、外館藩の別段廻役(犯罪人を捕らえる役人)である船越平太郎は、代官の田代から内密に頼みたいことがあると言われた。それが穏田探しだ。事情はこうだ。外館藩は南部藩から内々に御用金の調達を命じられた。しかし、そんな金はない。そこで穏田だ。申告せずに開梱した田んぼで米を作っていれば死罪、という時代だ。穏田を見つけ、税を取り立てて御用金に充てようというのだ。
しかし穏田があるという確信があるわけではない。しかし田代には、気になっていることがある。5年前の大飢饉の際の大平村の振る舞いだ。他の村が損耗を届け出たのに対し、大平村だけはすべてきっちりと支払っているのだ。いくら棄老しているとはいえ、それだけでは説明の付かない額だ。
大平村には穏田があるはずだ。それを探し出せ…。平太郎に課せられたのは、そんな任務だった。
穏田を隠し持つ大平村、そして「でんでら国」と、穏田を見つけ早急に金を作らねばならぬお上との知恵比べが始まる!
というような話です。

これは面白い話だったなぁ!全然期待しないで読んだんですけど、時代小説が苦手な僕でもスイスイ読めたし、最後まで話がどう展開していくのか分からないワクワク感みたいなものが続きました。

しかし、まずは設定が実によく出来ている作品だなと思いました。実際に「でんでら国」みたいな共同体があったのか、つまり、本書で描かれていることが史実を元にしているのかどうか、僕には分からないのだけど、こういうことがあってもおかしくはない、と思いました。棄老をしていると疎まれている村が、実はあらゆる工夫をして全員がいかに幸せに生き死んでいくかを考えている、という舞台設定は、実に魅力的です。冒頭でも書いたけど、恐らく当初は、村を健全に存続させるための苦肉の策だったのだろうと思うのだけど、それが結果的に理想郷を生み出すことになった、という流れも、よく出来ているなと思います。


普通にしていればその存在すら気づかれなかったはずの「でんでら国」が何故気づかれたのか。それが、郷を救うために「ちょっとやりすぎてしまった」から、というのも面白い。他の村が年貢を払いきれないのに、大平村だけは満額払う。棄老しているからだ、という説明で納得しなかった慧眼の持ち主によって見抜かれてしまった、という流れはいいですね。

そして何よりも、「でんでら国」の面々と別段廻役たちとのバトルは、素晴らしい!という感じでした。お互いが知恵比べのような形でやり合うんだけど、普通に考えればどう考えても農民側が不利です。この当時、農民の地位はとても低く、お上に楯突くなど持っての他という時代。お上の権力が圧倒的に強いために勝負にならないようにも思うのだけど、これがそうでもない。互角の勝負を繰り広げるんですね。このパワーバランスも実によく考えられていて良いと思います。どちらも、ギリギリのラインまで知恵や力を振り絞って、それで互角、というこの戦いぶりがとても良くできている。

権力ではお上の方が圧倒的に強いのだけど、「でんでら国」の強みは、「でんでら国」を長い間気づかれずに運営してきた歴史と知恵にある。あらゆる可能性をあらかじめ考えておいて、それぞれに対してきちんと準備をしている。だからこそ、不可能とも思える戦いに善戦することが出来るのだ。

また、「でんでら国」の面々は、自分たちのことを「一度死んだ人間」だと捉えている。彼らは60歳になって山に入った時点で死人となっているのだ。一度捨てた命なのだから、という感覚が、彼らの内側にずっとある。だから楽天的でいられるし、世間の常識を無視することも出来る。新しい「当たり前」の中で生きることが出来るのだ。

お上と農民の戦いは、時を経れば経るほど予想もつかない展開になっていき、最後はンなアホな!っていう流れになっていくんだけど、それが周到に準備された計画だったということが非常に面白いと思う。お上を敵に回す農民が使える武器は「知恵」しかない。その知恵を最大限振り絞ってやれるだけのことはやりきる、という姿勢が面白い。

冒頭でも書いたように、「でんでら国」に住む面々には、そこにいる意味がある。死の間際まで、その意味を感じながら暮らすことが出来る。金銭的な意味でも確かに豊かな共同体なのだけど、それ以上に、彼らが得た豊かさというのは、簡単には生み出すことが出来ない、歴史のいたずらが生み出したものなのだろうな、と思う。

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