【映画】「エヴェレスト 神々の山嶺」感想・レビュー・解説

1924年6月8日。ジョージ・マロリーとアンドリュー・アーヴィンは、エヴェレストの8740メートル地点にいた。しかし当日12:50、彼らは消息を経った。彼らの失踪が、登頂前だったのか登頂後だったのか、未だに分かっていない。
エヴェレスト初登頂は、公式には、1953年5月29日、エドモンド・ヒラリーとテンジン・ノルゲイによって成し遂げられた。しかしマロリーとアンドリューが1924年にエヴェレスト登頂を成功させていたとしたら、歴史が変わる。

1993年、山岳カメラマンである深町誠は、カトマンズの古物商で一台のカメラを見つける。
ヴェスト・ポケット・コダック モデルB
それは、エヴェレストの初登頂に成功していたかもしれないあのマロリーが使っていたカメラと同じものだった。
もしそのカメラに、初登頂を記録するフィルムが残っていたら…。
契約する出版社と交渉し、再度カトマンズを訪れてそのカメラを手に入れた深町だったが、しかしすぐさまそのカメラを手放すことになる。その古物商に、盗品を引き渡せと乗り込んできたネパール人がいたのだ。金を払った後だったが、深町は仕方なくカメラを返す。
しかしそこで深町は、意外な人物と出会う。
羽生丈二だ。
冬の鬼スラを初めて成功させたことで名を挙げ、その後も次々と難関を攻略していく。ライバルと言われた長谷渉と競い合い、争い合い、彼らは日本の山岳史を作り上げていった。
しかし羽生は、もう死んだと思われていた。
元々、山屋からの評判は悪かった。相手の気持ちを考えない無謀な男。そのままだと二人共死ぬが、ザイルを切れば一人は助かる状況でどうする?と問われた時、羽生は迷わず「切る」と答えて、山屋から忌み嫌われた。山屋としては完璧だった、でも人間としては最低だったと、かつてザイルパートナーとして羽生と組んだ男は語った。
その羽生が、ピサル・サルパと名を変えて、ネパール人と一緒にいた。
マロリーのカメラ、そして羽生丈二…。深町は、山岳史を覆す可能性と、羽生丈二の未知の挑戦に惹かれ、羽生を追いかける決断をするが…。
というような話です。

何故かこの映画、僕には合いませんでした。見ながら理由を考えていたんですけど、どうもうまく捉えきれません。
映画を見ながら、台詞が上滑りしてる、予定調和に収まりすぎている、と感じていました。羽生丈二、深町誠、そして羽生丈二のかつての恋人である岸涼子の三人がメインで登場するのだけど、どうにも彼らの台詞がうまく物語の中に馴染んでいない印象を受けてしまいました。エヴェレストでの撮影を敢行したようで、高所での演技で苦労したという側面はあるでしょうが、日本のシーンでの台詞にもどうも違和感を覚えてしまいました。これは、ちょっと分からないけど、普段から日本のドラマは見ず、ここ最近洋画ばっかり見てた影響だったりするのかな、と自分で考えたりしました。日本人の役者の演技の感じにあまりにも遠ざかってたからなのかな、と。

予定調和に収まりすぎているというのは、この作品としてはちょっとしんどいなと思いました。この映画で孤高のクライマーとして描かれる羽生丈二には、実在のモデルがいると言われています。ネットで調べたところ、映画の中で語られる羽生丈二のエピソードは、かなりそのモデルの人物の実際の言動であるようです。そういう意味で本書は、相当ノンフィクション要素が盛り込まれている物語だといえるでしょう(マロリーのカメラにしても、1999年にマロリーの遺体が発見された際、実際彼が使っていたはずのカメラは発見されなかったとのことです)。

なのだけど、この映画では、こうなるのだろうな、という予定調和の中に物語が収まってしまっていて、ノンフィクション的な、これからどうなるんだという要素を感じられなかったなと思います。もちろん、予定調和に感じたからと言ってそれが即悪い評価に繋がるわけではないけど、この映画の場合、実話を相当盛り込んでいて、また、エヴェレストで撮影するなどリアルな映像を追求しているのだから、予定調和に感じられてしまった部分が残念に感じたのではないかと思います。
僕の推測ですが、この予定調和は恐らく、原作の分量に要因があるように思います。僕は原作は読んでいませんが、上下巻のかなりボリュームのある作品です。これを映画にするためには、相当内容を削らなければならなかったでしょう。そのために、映画は予定調和的になってしまったのではないかと勝手に想像しました。

あと、これも仕方ないと分かってるのだけど、映画の後半、深町誠と羽生丈二の独白が多くなってくるのがどうにも受け入れがたかったです。登攀のシーンでは、猛吹雪で音がうるさいし、そもそも喋る体力がない。だから、心理描写が独白で処理されてしまうのは仕方ないと分かってはいます。でも、小説では違和感のないだろうそのやり方が、映画で多用されるとちょっと辛いなぁ、と感じてしまいました。

ここまで僕が書いたことは、あの分量の原作を、しかも極地での撮影を必須とする物語を映画化する上で、ある程度妥協せざるを得なかった部分なんだろうな、と思いました。ただやっぱり、純粋に作品として捉えた場合、そういう妥協せざるを得なかった部分が欠点に見えてしまうなぁ、と思うのです。

個人的には、もう少し羽生丈二個人にスポットライトが当たるといいな、と思いました。
実際作品の中で、羽生丈二はメインで描かれています。でもそれは、初めて鬼スラを成功させたとか、人間業じゃないと言わしめた奇跡の生還を果たしたというような「羽生丈二の記録」です。そうではなくて、羽生丈二が何を考え何を見ているのか、そういう部分を知りたいという気がしました。ノンフィクションであれば、そういう部分は永遠に分かりません。しかし、これは物語なのだから、もっと羽生丈二の内面に迫れるんじゃないか、と思いました。まあもちろん、原作でも迫っていないのかもしれませんが。

『一番目じゃなきゃ意味がない。誰かの後なんて我慢できない』
『俺がここにいるから山に登るんだ』

羽生の内面に迫る描写は、ないわけではありません。ただ、もっとそういう部分に力点が置かれた物語だったら良かったのに、と思ってしまいました。

羽生丈二の描かれ方で最もいいなと思ったのは、先ほど少し書いたザイルを切る切らないの話です。岸丈太郎と言う若者が絡んでくる物語なのだけど、この話は物語の最後の方まで関係してくる。羽生の人間性を決定づけた出来事が、羽生の人間性を更新させる要素ともなる。『お前を助けたのは俺じゃない』という羽生の台詞は、凄くいいなと思いました。

僕の中ではちょっと残念だったなという感じの映画でした。ある程度は仕方なかったのだろうとは思うのだけど、もう少し違った感じで映画化出来たりしなかったかなぁと思ってしまいました。

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