【映画】「ダンシングホームレス」

【社会のルールの方がいいですか?】

と、振付師であるアオキ裕キが、ある場面で言った。


映画を観終わったあと、監督による短いトークイベントがあり、そこで監督自身が、この映画の裏テーマは、「自分を受け入れてくれる新しい父親」だと語っていた。確かに、そういう側面もある。

ただ、「家族」的なものに特別興味のない僕は、この映画の裏テーマは、「社会のルール」ではないかと感じた。

非常に印象的なシーンがあった。この映画は、ホームレスやホームレス経験者によるダンスチームに密着するドキュメンタリー映画だが、撮影している中で、彼らのことがネット記事で取り上げられたという。しかし、その記事のコメント欄に、「ダンスが出来るなら働いてください」「仕事をして税金を収めてください」というような批判的なコメントが結構載ったというのだ。

世の中って怖いなぁ、と僕は思う。

ダンサーの一人で、現役のホームレスでもある西篤近が、監督から「じゃあまだ仕事をするつもりはないですか?」と問われて、こんな風に返す場面があった。

【仕事に就くことに、まだ気持ちが乗らないんですよね。仕事をするって、自分のために働くとか、自分のためにお金を稼ぐとかじゃないですか。でも、そういう部分に気分が乗らない。もちろん、自己実現のためとか、誰かのために働くみたいなのもあると思います。じゃあ自分は?って思った時に、自分が一番やりたいと思えることが、今のダンスなんですよね】

こっちの意見の方が、僕にはしっくりくる。

先のネット記事へのコメントは、要するに、「仕事するのは人間の義務だ」という主張だろう。確かに憲法には、「勤労の義務」が三大義務として盛り込まれているが、この解釈は様々にあり、「主に国家が国民に対して勤労の場を確保することができるよう義務付けているのではないか」「そもそも自由主義を掲げる国の憲法に「勤労の義務」を規定することはふさわしくないとの意見がある」(Wikipediaより)と書かれている。僕も、「勤労」が義務であるという感覚は、ちょっと馴染めない。働かなくても、お金がなくても、他人にそこまで迷惑を掛けずに生活が出来ているなら、別に問題ないだろう。ホームレスは他人に迷惑を
掛けているというが、まったく他人に迷惑を掛けずに生きている人なんてこの世の中に存在しないだろう。ホームレスの人たちは、その「迷惑」が、ちょっと目立ちやすく、また、攻撃されやすい、というだけだと思う。もちろん、多大なる迷惑を掛けるホームレスもいるだろう。しかしホームレスじゃない人の中にも、ハトに餌をやって周辺をフンだらけにするとか、ゴミ屋敷にしてしまう人なんかがいる。どの世界にも、極端な人というのはいるわけで、そうではない、平均的なホームレスを見れば、そこまで多大な迷惑を掛けているという風にはならないと思う。

「働かなくても、お金がなくても、他人にそこまで迷惑を掛けずに生活が出来ている」ということが、仮に事実だとするなら、そういう人たちに「仕事しろ」「納税のために働け」と言うことは、果たして理屈が通っているだろうか?と思う。

また、どうしてもホームレスの人たちというのは、「働きたくなくてホームレスになっている」という見られ方をする。先程の西さんのケースは、そちら側だろうと思う。しかしやはり、ホームレスになるにはそれなりの理由がある。この映画の中でメインで扱われていた平川収一郎は、父親から木刀で殴られるなどの苛烈な暴力を受けており、15歳で家出。当時はまだ年齢をごまかしてパチンコ屋の住み込みの仕事が得られたが、時代が変わり、仕事を得るためには身分証が必要になってくる。家を飛び出してしまった平川さんは、身分証を何一つ持っていなかった。そのため、仕事ができなくなってしまい、ホームレスになったという。

この話を聞いてもなお、「働くのをサボっている」などと言えるものだろうか?と思う。もちろん、真っ当な家庭に生まれ育ってもホームレスになる人もいるだろうし、まともではない家庭に生まれ育っても立派な人生を歩む人もいるだろう。だから、環境のせいにするのは逃げであり、言い訳だ、なんて厳しいことを言う人もいるはずだ。

でも、誰もがそんなに強く生きられるわけではない。そんな強さを求められたら、僕もしんどい。

アオキ裕キが代表を務めるダンスチーム「新人Hソケリッサ」では、練習や稽古への参加は強制しない。ダンスに入る前、身体をリラックスさせるために、床の上に横になって身体の力を抜いていく時間を取るのだけど、その時にメンバーが寝てしまっても起こさない。

彼は、その瞬間瞬間のその人の感覚こそが、最も大事だと考えている。だから、「稽古に行きたくない」という感覚ならそれを優先すればいい。人間というのは、普通にしていると、先々のことを考えてしまう。だから、「こういうことをしたら恥ずかしいかも」と考えて、表現ができなくなる。だから、踊ることによって彼らの魅力を引き出すためには、今その瞬間の感覚に常に正直になってもらう方がいい。彼はそう考えているのだ。

この意見を聞いた監督が、「それは一般的な社会のルールとは違いますよね?」と問いかけた際のアオキ裕キの返答が、冒頭のセリフだ。

僕は、こういう感覚が、ある程度社会に組み込まれてもいいんじゃないか、と思う。もちろん、ルールがまったくないという状態は無理だ。「社会」というものを構成して、その中で社会の構成員として生きていくのであれば、そこにある程度のルールは必要だし、それを守る意識が必要だ。しかし、もっと緩めてもいいことはたくさんあるんじゃないかと思う。今の世の中は、一度社会のレールから外れると、元に戻ることがかなり困難だ。だから、自分の心がしんどくても、一旦離れてみよう、という考えになかなかなりにくい。しかし、元通りは無理にしても、社会のレールから外れてもある程度同じところに戻ってこられるとしたら、レールを外れてみてもいいかもしれない、と思える人は増えるだろう。そしてその方が、自殺者もホームレスも減りそうな気がする。

社会は、レールから外れた者に厳しい。しかし、その厳しい視線は、自分の首を締めることにも繋がっている。世の中、何が起こるか分からない。ホームレスと言わないまでも、自分が今いる立場から落ちてしまう可能性など、いくらでもある。自分がそういう立場になってしまった時、それまで自分がホームレスに向けていた厳しい視線が、自分に返ってくることになる。

ホームレスの人たちは、社会のレールから外れ、社会から厳しい目を向けられている者たちだ。メンバーの一人は、

【路上生活は、人間性が欠落していくんです。ネガティブな経験は、身体に残るのかな、って】

と語っている。当然、厳しい生活の中で生きている。しかしその後ですぐに、

【それをダンスによってポジティブに発散できればいい】

と続ける。アオキ裕キも、

【路上生活を経験している人たちの身体から溢れ出てくるものに魅力を感じる】

と語っている。

僕自身は、視覚的な表現全般に対する感受性がさほど高くないので、彼らのダンスに対して、心から「凄い」と思えるほどではない。ただ、知識として、彼らには路上生活の経験がある(なんならまさに今も路上生活中である)ということを知ると、やはり、ただのダンスではない何かを感じる。とはいえ、アオキ裕キは、「彼らがホームレスであるという事実をそこまでアピールしたいわけではない」という。「彼らの内側から出てくるものを感じ取ってほしい」という。そういう意味で僕は、彼の思惑とは違う見方をしていることになるが、とはいえ、彼の取り組みそのものは、非常に興味深いと感じる。

映画全体の設定についてもう少し触れておこう。

アオキ裕キが主催している「新人Hソケリッサ」というダンスチームは、ホームレスの自立を支援するビッグイシューのサークルとして立ち上がったようだ。基本的にメンバーは、路上で「ビッグイシュー」という雑誌を販売することで現金収入を得ている者たちだ(たぶん。全員がそうであるという確定的な情報はなかったと思う)

既に結成して10年以上が経過しており、路上やイベントや公演などで、ダンスを披露してきた。この映画では、映画撮影時にメンバーだった面々にスポットを当て、どうしてホームレスになったのかや、ソケリッサの活動に対してどう感じているのかなどを語る。

ホームレスとして生活をしていることに対する思いは、人それぞれ様々だ。自分らしく生きるにはホームレスしかないと思っている人、先々が不安で仕方ないという人、逃げ続けてここにたどり着いたという人。彼らには、住居はなく、そのため、何らかの形で公共の空間を間借りして生活をしている。それは確かに褒められたことではないが、しかし彼らも、なるべく他に迷惑を掛けないようにという意識はしているし、実際に、人によって感じ方が様々だろうが、それほど迷惑だとは僕には感じられない。

彼らは、自分たちの現状に対する卑屈さみたいなのはやはりある。ソケリッサに出会う前は、それを何らかの形で表に出していく機会などはきっとなかっただろう。ダンスを通じて、彼らの中に溜め込まれてきた様々な感情が放出されているのだろうし、そのことはきっと、彼らの日常の生活にとっても大きな影響を与えているのではないかと思う。

アオキ裕キは、元々タレントやアーティストと仕事をする振付師だった。チャットモンチーの「シャングリラ」やL'Arc-en-Cielの「STAY AWAY」の振付を担当するなどしていた。そんな彼は今、空いている時間はアルバイト(しかも振り付けのではなく、施工のアルバイトをしているらしい)をして、ソケリッサの活動資金にしている。

何故そこまでしてホームレスのダンスチームを率いるのか。

彼は、多くの人に振り付けをしていく中で、「振り付けは、その人の個性を消していく作業だ」と感じるようになったという。「ここで止まるとカッコいい」とか「こうやって全体を揃えよう」というような指示は、そもそも個性を失わせるものだし、「言われた通りにちゃんとやろう」という意識が強くなると、内側から何も出てこなくなってしまう。そういうことではなく、もっとダンスの自由さみたいなものが伝えられないか、と思っていたようで、そのことが今の活動に結びついているという。

とはいえ、ソケリッサを立ち上げた当初も、作った振り付けを教えるという形で進めていたが、やはりどうもうまくいかなかったのだという。そこで、「言葉」を伝え、その言葉から連想される動きを表現してもらう、という風に変えたという。

その言葉というのは、「熱を吸い込む口」「花畑を進む巨体」「覆う群青」「太ももを閉じて下げる」などだ。こういう言葉だけを提示して、あとはその人の解釈の中で動いてもらう。そうやって全体を構成していくのだという。

映画の中で、一般の人も交えて、ソケリッサの振り付けのやり方を体験してもらうワークショップをしている場面があった。そこでは、ソケリッサのメンバーと女性が2人1組となってそれぞれダンスを考え披露する、ということが行われていたが、確かに、その日初めて会った人とのダンスとは思えないぐらいのやり取りが行われていて、凄いと感じた。

ともすれば、社会貢献活動の一貫として捉えられてしまいそうなソケリッサのダンスだが、見ていると、やはりそこには、社会の何かに対するアンチテーゼとしてのアートという立ち位置を感じることができる。「生きている」ということそのものが表現になる、という、ある種特殊な立ち位置にいるホームレスの人たちの内側から出てくるものを最大限活かそうとする挑戦が、社会を少し新しい方向にズラしてくれるといいな、と思った。

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「文庫X」とか「帯1グランプリ」とかやりました。 『書店員X』(中央公論新社)とか『このままなんとなく、あとウン十年も生きるなんて マジ絶望』(秀和システム)とか著作があります。 なるべく、フラフラと適当に緩やかに生きていきたいです。
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