【映画】「パッドマン 5億人の女性を救った男」感想・レビュー・解説
メチャクチャ面白かった!
これは凄いなぁ。
女性用ナプキンを開発する“だけ”の物語で2時間20分、しかも、まさか“国連”まで登場するとは!
この映画を見て一番驚いたことは、この物語が2001年が舞台になっている、ということだ。
マジか、と思った。
以前何かの本で、アフリカに避妊具を広めるボランティア活動をしている団体の話を目にしたことがある。コンドームの使い方を説明するのに、コンドームを指にはめて、こう使うんだ、とアフリカの人に説明をしたところ、コンドームを本当に指にはめて使うものだ、と勘違いされてまったく伝わらなかったらしい。要するに、おまじないか何かの類だと受け取られたのだ、という。
映画を見ながら、そのことを思い出した。
2001年当時、インドの女性は、生理期間の5日間、家の外で暮らさなければならない。都会ではどうか分からないが、物語の舞台になっている田舎では、生理は“穢れ”と呼ばれ、話に出すことも汚らわしいし、それについて触れることも恥ずかしい、という感じだった。しかも問題だったのは、出血のために使うのが汚れた布だ、ということだ。
主人公のラクシュミ(これは映画の中の名前で、実際にはムルカナンダムという名前の人物だそうだけど)は、妻が汚い布を使っていることを心配した。医者からも、生理に汚れた布や灰を使うことで病気になり、不妊になるケースだってある、という話を聞いた。ナプキンを薬局で買うが、55ルピーもした。これがどれぐらいの値段なのか分からないが、妻はあまりにも高すぎて薬局に返してきてと言うほどの値段だった。
これが、この映画の舞台である。
そんな中、ラクシュミは、妻のためにナプキンを自作することに決める。しかしこれが大騒動を引き起こすことに。ラクシュミの行動は、妻や周囲の人間を大いに困惑させることになったのだ。最初は妻に使ってもらおうと思っていたラクシュミだったが、数回使って止めてしまう。出来が良くなかったからだ。しかしラクシュミは諦めず、改良したものをまた使ってもらおうとしたが、妻は、この話を話題にすること自体が恥ずかしいからもう止めてと取り合ってくれない。そこでラクシュミは、自分が作ったナプキンを使ってくれる人をあれこれ探し、女子医大生にアプローチしたり、成人女性になったばかりの近所の女の子にナプキンを渡したりしていたのだが、その行動によってラクシュミは「イカれている」と判断されてしまうのだ。
ここからラクシュミがどうしていくのか、というのが物語の主眼なのだけど、しかしホントに、21世紀にもなって、まだ迷信や間違った伝統みたいなものに縛られ、それらを守るために自分の健康が害されても仕方がない、という判断がまかり通るというのは、やはり怖いことだ、と僕は感じた。
そして、ここで描かれていることはきっと、インドだけの問題でもないし、発展途上国だけの問題でもない。
例えば日本では、常時様々なダイエット法が現れては消えていく。はっきり言って、科学的に考えればダイエットなんか、「適度に運動すること」「バランスよく食べること」以外に方法なんかないと思う(それ以外の差は、元々の体質だから正直どうにもしようがない)。しかしみんな楽をしたくて、色んなダイエット法に手を出しては失敗する。
そういう行動を繰り返している人は、決してこの映画で描かれる「無知な女性たち」を非難できないと僕は思う。
そしてこの映画で描かれるもう一つの凄さは、ラクシュミの野望だ。ラクシュミにはある時点で、自分がより豊かになれる選択肢があった。しかしラクシュミは、その選択をしなかった。そして彼は、自分がより正しいと思える行動を取った。その選択は、本当に見事だったと思う。
この映画の副題は「5億人の女性を救った男」だ。これは、インドの女性人口が5億人であることから来ている。しかし彼が救ったのは、“たった”5億人ではない。彼が生み出した“魔法”は、経済的な理由でナプキンを手に入れることが出来ないすべての女性を、そしてさらに、仕事がなく自立出来ないでいるすべての女性を救う可能性を持っている。
いやはや、すげぇもんだな、と思いましたよ。
前半のラクシュミは、本当にメチャクチャ大変だったと思う。彼の行動の意味を、先進国に生きる僕らはもちろん理解できるけど、2001年当時のインドでは女性にも男性にも理解されなかった。ラクシュミが高潔な目的のために行うすべての行動が、「汚らわしい」「恥」「意味が分からない」「頭がおかしくなった」と言われた。彼はそれでも、決して歩みを止めなかった。それが凄すぎる。これは正直、「妻への愛」としか言いようがないのだけど、でも実際にはそれを超えていると言わざるを得ない。何故なら、ナプキンを作るという行動のせいで、妻の心がラクシュミから離れてしまうからだ。それでも彼は、目的のために邁進する。その凄まじさは並ではない。
そして後半のラクシュミは、メチャクチャ楽しそうに見えた!僕も、感覚としてはラクシュミの言っていることが分かる。どれだけたくさんお金があっても、どれだけ大きな家に住んでも、どれだけ美味しいものが食べられるとしても、たぶん僕は全然楽しくないだろう。それより、お金がなくても(貧しい生活でなければ)楽しいこと、あるいは誰かのためになることが出来る方がいいだろう。特にラクシュミのやっていることは、世界を変える可能性がある。実際ラクシュミが「ニューヨーク・タイムズ」や「LIFE」の表紙を飾っているような描写が出てくる。別にそうやって大きなものに評価されることが重要なわけではないけど、ラクシュミの行動は、小さな変化の積み重ねが大きな評価に繋がったという意味で非常に価値がある。
前に本で、最近アメリカなどでは、優秀な学生が、大企業の内定を蹴ってNPOなどに就職するケースが増えてきている、というような話を読んだことがある。給料ではなくやりがい、金儲けではなく問題解決のために自分の能力を活用したい、という人がどんどん出てきているというのだ。僕も、感覚としてはそちら側だ。確かに大金があったらよりやりたいことが実現できる可能性はある。しかし、大金があることでできなくなってしまうこともある。ラクシュミも、大金を手に入れられるチャンスはあったが、それでは彼が望んでいた未来は実現できなくなってしまう。だからこそ、大金を手にできるかもしれない可能性を捨て、別の可能性に賭けた。
そういう、実在した、凄い男の物語だ。