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【本】遠田潤子「雪の鉄樹」感想・レビュー・解説

人生には正解しかない、と僕は思っている。


何故なら、どんな人であれ、選択肢の中から一つしか選ぶことが出来ないからだ。

選ばなかった無数の選択肢、それらをもし選んでいたらどうなっていたのかは、永遠に分からない。どれだけ考えても、どれだけ悩んでも、選ばなかった人生がどうなるか分かるはずもない。「もしあの時ああしていたら…」という想像は、少なくとも現実にはまったく影響を及ぼさない。現実に影響を与えるのは、自分が選び取った選択肢だけだ。

そんな風に考えているからだろうか。僕は過去の決断や判断を後悔したことがない。「あの時ああしていれば…」と過去を振り返ることがほとんどない。別に、成功ばかりの人生というわけではない。思い出したくなくて忘れたものも含めれば、失敗ばかりの人生だった。もう少しうまく立ち回ればする必要のなかった苦労や失敗もたくさんあるかもしれない。

でも、結局僕は今の人生を自分の決断や判断の積み重ねによって選び取った。それしか正解は存在し得ないのだから、過去を悔やんでもしかたない。

ただ一方で、僕はこうも考える。結局僕は、目の前に存在しうる選択肢の中から巧みに、後々後悔しそうな選択肢を排除しているのではないか、と。その行為自体は、別に僕は問題だとは思わない。ただ僕は、「後悔しない人間」なわけではなくて、「後悔しなくてもいいような選択をしてきただけの人間」なのかもしれない、ということだ。

結局、色んな苦労や失敗をしてきたけど、僕の苦労や失敗は、僕がその気になれば取り返せるようなものばかりだ。親との関係で色々あったけど、別に今からでも修復させられるだろう。大学も辞めたけど、入り直すことは可能だ。引きこもって一度人間関係がリセットされかけた時もなんとか関係を戻せたし、後から挽回できないような取り返しの付かない行動はしていない。

取り返しの付かない行動を取った場合、僕がそれでもなお後悔しないかどうかは、僕には分からない。

例えば、自分が他人を死なせたとする。絶対に取り返しの付かない行動だ。その場合、僕は過去の自分の行動を悔やむだろうか。それとも、結局過去は変えられないのだから後悔しても仕方ないと考えるだろうか。

分からない。

一つだけ言えることは、僕はきっと逃げるだろう、ということだ。取り返しの付かない行動を取った時、僕は徹底的に逃げるだろう。物理的に逃亡する、というような意味ではなくて、現実から逃避するだろうと思う。そういう想像なら、容易にすることが出来る。これまで僕は、嫌になったら逃げて逃げて逃げまくってきた。そうやって、なんとか今ここにいる。謝罪や償いみたいなものから、目を背け続けるだろう。そうしなければ、自分を保つことが出来ないから。

そういう自分のことを理解しているから、僕は自分が取り返しの付かない行動をしないようにとなるべく思っている。しかし、僕自身がそういう行動を取らなくても、誰かのそういう行為の結果が自分に降り掛かってくる、ということもあるだろう。
なるべく、そんな状況に陥らないように生きていたい。わざわざ自分の最低さを再確認するような状況には、なるべく遭遇したくない。

内容に入ろうと思います。


祖父の代から続く「曽我庭園」で庭師として働く雅雪。子どもの頃から親方である祖父の仕事の手伝いをしており、父親よりも筋がいいと早くから認められていた。雅雪自身も庭師の仕事が好きで、庭仕事の古典作品を読みふけったり、高校を卒業したら京都に修行に行くと決めていたり、庭師として生きる決意をもう大分以前から固めていた。


そんな雅雪は、32歳の今、未だに祖父を親方とする「曽我庭園」で働きながら、13年間に渡って両親のいない少年・遼平の面倒を見てきた。遼平の祖母である島本文枝に奴隷のような扱いをされながら、雅雪はそれを黙って受け入れ、子一人祖母一人の生活を外から支えている。


20歳のあの日から13年間。雅雪はある日をずっと待ちわびていた。その日のためにこの13年間苦しい状況を我慢してきたと言っていい。しかしそれは同時に、遼平のことを裏切ることになる日でもある。雅雪はいつ遼平に話すべきか様子を窺うが、なかなか決心はつかない。


遼平との関係も、以前のままというわけにはいかなくなった。何故雅雪が遼平の面倒を見ているのか、何故遼平の祖母は雅雪に対して屈辱的な扱いをしているのか、その理由を知ってしまった遼平は、自分が雅雪に対してどういう振る舞いをするべきなのか分からなくなって混乱する。


壊れた家族に生まれた不幸、そして壊れたものを再生させる手段を知らない者の不幸。そして何よりも、壊れていることに気づかない不幸。不幸の連鎖の中でもがく雅雪は、その連鎖を断ち切ることが出来るだろうか…。

というような話です。


凄い作品だったなぁ。最初から最後まで緊迫感があって、重苦しさがあって、それでも読まされてしまう。結構分量もあるので、いつもより読むのに時間が掛かる想定でいたのに、想定より早く読み終わってしまった。この物語がどう展開し、どう決着するのかを知りたい、という気持ちに強く駆られたのだろうと思う。

この作品の特異さは、雅雪という人物が生み出している。雅雪が、恐ろしく善人である、という点が、この作品を異様なものにしているのだ。

通常、僕は善人には興味がない。面白くないからだ。しかし、雅雪は、普通の善人とは少し違う。
彼の場合、13年前のあの出来事がなければ、彼の「善的な部分」は表に出なかったのではないかと思う。元々の彼は、善人とは程遠い人物だった。そして、13年前のあの出来事以降も、雅雪自身は自分のことを善人だとは思っていない。しかし傍から見れば、彼は異様なまでに善人なのだ。

彼の場合、「徹底的に善人でなければならない」という異様な執念みたいなものを貫き通しているという印象がある。彼の善的な部分は、そうしようと踏ん張っているからこそ生まれ、継続されているものなのだ。そういう意味で、彼は本来的な善人ではない。そもそも曽我家の家庭環境からまともな善人が育つことを期待する方が間違っている。


雅雪はある軛によって、善人であることを自らに義務付けている。遼平の祖母は、それに付け込んでいるし、遼平はそのことに気づかずに雅雪を本物の善人だと思っている。そして彼らを取り巻く周囲の人間は、また違った形で雅雪のことを捉えている。

雅雪が何に囚われているのかは、作中でも中盤以降に登場するので、ここでは明かさない。しかし、本来的に彼は、一般的に「償い」と呼ばれる行為をする必然性のない人物だ。そこにこの物語の核がある。雅雪が「償い」をすればするほど、彼を中心とした現実の磁場が歪み、その磁場の範囲内にいる人間を狂わせていくことになる。

この物語は、雅雪自身がその歪みに気づくまでの、長い長い13年間の終わりの物語だと言っていいだろう。

『これが償いの結果だ。つまらない浅知恵で、かえってみなに迷惑を掛けた。俺のやってきたことは償いでもなんでもなく、ただ遼平を苦しめるためだけのものだったのか』

雅雪の行動を評価することは、とても難しい。彼は、自分の行動が、純粋に相手のためになると思って「償い」を続けている。そこに偽りはない。しかし彼もまた、不幸な生い立ちを背負った人間だ。不幸すぎる、と言ってもいいくらいだ。だからこそ彼は、一般的な人間が一般的に何を望むのか、何を望まないのかを捉え誤る。自分の言動が他人にどういう風に見られるのかを捉え誤る。そこにすれ違いが生まれ、それらがさらに何らかの出来事によって増幅して、取り返しのつかない状況が引き起こされることになる。

そしてさらに、雅雪の行動には加わる要素がある。これは具体的には書けないが、『原田は勘違いしている。俺は好きなように生きてきた』という部分を引用しておこう。この言葉の真意は、本書のラスト付近で理解できる。彼の行動は、「償い」の気持ちから生まれたものだ。それは嘘偽りない。しかしそれは同時に、「好きなように生きる」という選択によるものでもあった。彼が遼平の面倒を見ることは、彼の「好きなように生きる」という生き方に合致するものでもあった。しかし、それはとても哀しい理由だ。雅雪の家庭環境が違ったものであったら、そういう感想は出てこなかっただろう。結局のところ雅雪は、家族の不幸の連鎖の被害者であり続けているということなのだ。

『雅雪。私には情というものが理解できない。だから、おまえの話を聞いても気の毒だと思うことすらできない』

これは雅雪の祖父の言葉だ。僕はたぶん、この祖父の側の人間だろうなという自覚がある。子どもの頃から、「家族」という括りや単位に疑問しか感じなかった。きちんと言語化出来ていたわけではないけど、何故年齢も生い立ちも趣味趣向もバラバラな人間が「血が繋がっている」というだけの理由で一緒にいなければならないのか分からなかったし、今もよく分からない。僕は、この祖父ほど酷くはないだろうが、同じベクトルの感覚を持っているだろうなと思う。

じゃあ何故そんな人間が子を持つに至ったのか、と疑問を抱くかもしれないが、その辺りも実にうまく説明されている。曽我家の面々はむかしから「たらしの家系」と呼ばれていて、祖父と父は常に女をとっかえひっかえしているのだ。そんな家庭環境に雅雪はずっと嫌悪感を抱き続けてきた。この家族は完全に壊れているが、あまりにも壊れすぎているために雅雪は、そこで育ってきた自分が壊れていることにずっと気づかないでいたのだ。

『別に舞子が嫌いだったわけじゃない。関心がなかっただけだ』

こちらも、壊れた家族の話だ。この一家の話は物語の中盤以降でメインで登場するので、詳しく書くことは避けよう。いずれにしても、この作品には、完全に崩壊した家庭が2つ登場する。遼平の家族も含めれば3つか。家族の不幸の連鎖が途切れることなく続いてしまい、さらにその不幸が他の不幸と混じり合っていくことで、考えうる限り最悪の状況が引き起こされ、関わった者たちをさらに不幸にしていく。その過程を描き出す描写と展開力が実に見事だなと感じる。

本書はまた、才能の物語でもある。

『努力にはなんの意味もない』

庭師の親方である祖父の言葉だ。あまりにも容赦がないが、分からないわけでもない。凄い人間は最初から凄いんであって、努力でどうなるもんでもない。まあ、そりゃあそうですね。才能のあるなしは、ほとんど生まれた時に決まっているのだろう。

本人の努力ではどうにもならないのが才能というものだ。本書では、才能がないという事実を思い知らされ、それに絶望した者が2人登場する。雅雪を取り巻く状況は、その2人が生み出したと言ってもいい。

才能などなくても、別に生きていける。世の中に大多数は凡人なのだ。自分が凡人であることを受け入れて生きていければ、こんなことにはならなかった。
しかし、どうしてもそうは思えない人間もいる。

『あれはきつかったな。あいつらはただ生えてるだけなのに…。あんなにも人を感動させるんだ』

自分には特別な才能があるはずだ、人を感動させるだけの力があるはずだ。そう信じ続け、圧倒的な努力を重ねた男は、現実を思い知らされる。それまで、人生のすべてをそれに捧げてきた。しかしその努力には、一片の意味もなかった。

『そこまで言うのなら、こっちもはっきり言わせてもらうね。私は最初から無理やと思ってた。あなたにはそこまでの才能はない。才能のある子は全然違うの。』

子供の時に教えてくれた先生からそんな風に言われた男。何かに真剣に打ち込んだ経験のない僕にはその挫折は理解できないし、理解できたとしても彼がした行動を許容できるわけでもない。でも、こうも考えてしまう。もし彼が、ほんの少しだけ違う人生を歩んでいたら、彼も彼の周りの人間もまったく違った生き方をしていただろうな、と。冒頭で、「人生には正解しかない」と書いたけど、選んだ選択肢以外の人生が容易に想像できる場合(そしてそちらの方がトータルでは幸せだっただろうと思える場合)、やりきれなさを感じる。

この作品には、本当に悪い人間はごく僅かしか登場しない。雅雪が何らかの形で関わる面々のほとんどは、基本的には善良な人間だろう。しかし、ほんのささいなきっかけやちょっとしたすれ違いが、彼らをただの善人のままではいさせなかった。そして、雅雪のズレ方があまりにも歪であった。そして不幸なことに、雅雪のズレ方は、曽我家の中では問題にならないほど「普通」だった。彼は自分が歪んでいるという事実に気づかないまま、その歪さによって周囲を振り回していく。

『あんたが人殺しやったらよかったのに』

この作品は、雅雪という異様な人間をリアリティを持って存在させたことによって成立している。普通雅雪のような行動を取る人間は、「もしかしたらこういう人いるかも」と思わせられるようなリアリティを持てないだろう。しかし著者は、雅雪という人物を、いてもおかしくない存在としてリアルに描き出した。彼はこれからも歪なまま生きていくだろう。しかしそうだとしても、「再生」と呼びたくなるような希望の持てるラストで、雅雪の今後を想像したくなる終わり方だった。


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