【映画】「彼女の人生は間違いじゃない」感想・レビュー・解説

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「どうして生きているのか?」という問いは、愚問だと思っている。
そこに、意味のある答えなどないからだ。

問い自体は少し違うが、大学時代の友人と、「何故人間は生まれたか?」という問いについて考えることが時々ある。その時僕は決まって、多世界解釈の話をする。物理学で実際に提唱されているもので、僕らが生きている世界は、少しずつ違う条件の並行世界が無数に存在している、という仮説だ。それは、例えばこんな妄想さえ許容する。その並行世界には、生命体のいる惑星が生まれなかった世界もあるし、宇宙が水素で満たされた世界もあるし、太陽が10個ある世界だってある。僕らはその世界の中でたまたま、人間が生まれた世界で生きている、というだけの話だ。この解釈の話をすると、「それじゃあ話が終わっちゃうから」と、大学時代の友人からは不評だが。

「どうして生きているのか?」という問いは愚問だと思っている。
とはいえ、圧倒的に理不尽な現実に直面せざるを得なかった人たちが、「どうして生きているのか?」と問いたくなる気持ちまで、否定するつもりはない。

僕は、何が何でも生きていたいという気持ちがない。
生きる気力が昔から乏しいと感じていた。
だから、圧倒的に理不尽な現実を前にして、それでも生きてやろうと思えるか、自信はない。
たぶん、無理だろう。
その時、自分がどういう決断をするのか、うまくは想像が出来ない。

そういうことを考えてしまうからだろう。
僕は「守るべきもの」を持ちたいとは思えない。
それは、人でもモノでも信念でもいい。「守るべきもの」を持ってしまえば、どうにか生きていくしかない。でも、生きていく気力の乏しい僕には、未来永劫「生きよう」と思っていられる自信がない。

平日は福島の市役所で働き、週末は東京でデリヘル嬢として働くみゆきにとって、「守るべきもの」は何だったのか。
それを僕は明確には捉えきれなかった。

この問いは、みゆきがデリヘル嬢として働いている、という事実から生まれる。みゆきは震災によって農業が出来なくなった父親と二人暮らし。仮設住宅に住み、結婚はしていない。みゆき自身は市役所で働く身だ。震災以降働くなった父親が、補償金をパチンコにつぎ込んではいるが、それでもまだ使い果たしたわけではない。震災から5年、福島県の現状を詳しく知っているわけではないが、そういう状態であれば、東京でデリヘル嬢として働かなくても、金銭的には特に問題ないのではないか―。

だからこそ僕はこう考えた。みゆきには、何か「守るべきもの」があるのだ、と。

しかし、それが何であるのか分からない。未来の安心だろうか。仮設住宅を出るための資金だろうか。もしかしたら、そもそも市役所の給料だけでは足りない事情があるのかもしれない。被災した自宅の返済が終わっていない、とか。

何かあるはずなのだ。みゆきは、当然だが、自分の快楽のためにデリヘル嬢をしているのではない。自分の中に、鬱屈を押し込めて、それでも必死で踏ん張ってデリヘルの仕事をまっとうしようとしている。その努力の背景には、何かあるはずなのだけど、それが何かは分からなかった。

分からなかったが、ラストの展開を見て、問い自体が間違っていたのかもしれない、とも考えた。もしかしたらみゆきは、「守るべきもの」を探すためにデリヘル嬢として働いていたのかもしれない。震災によって、ありとあらゆるものを奪われた。みゆきの震災前の生活についてはほとんど知る由もないが(元カレが接触してくるのが、唯一みゆきの過去を連想させるぐらいだ)、震災前には何か「守るべきもの」が普通に日常の中にあったのかもしれない。震災後、当たり前にあったその「守るべきもの」が日常から消えた。だからといって、震災で壊滅してしまった福島の地で、すぐに「守るべきもの」が見つかるとも思えない。

その虚無感が、彼女を東京に向かわせたのかもしれない。ここではないどこかなら、「守るべきもの」が見つかるかもしれないと信じて。そして「守るべきもの」が見つかった時に、確実に守ってあげられるようにお金を貯めるために。

正解は分からないが、いずれにしても僕は、「彼女の人生は間違いじゃない」と言ってあげたい。

内容に入ろうと思います。
仮設住宅に父親と二人で住み、市役所で働くみゆき。週末になると高速バスで東京を目指す。車内で、あるいは東京駅のトイレで着替えや化粧をし、渋谷のデリヘルの待機場所へと向かう。そこでみゆきは「ユキ」という名前で呼ばれる。三浦が彼女を送迎し、危なくなった時には彼女の身を守る。三浦は、デリヘル嬢の送迎という自分の仕事を、「生きてる感じするよ」と肯定している。
震災から5年が経ち、それでも働こうとしない父親は、パチンコばかりして補償金を食いつぶそうとしている。震災で死んだ母の話、そして近所の野球少年の話を繰り返し、現実を見ようとしない父親にみゆきは時々憤りを隠せなくなる。
みゆきと同じく市役所で働く新田もまた、もがいている。家族は全員無事だったが、津波で流されてしまった水産加工場で働いていた父親は仕事をしなくなり、母親は祖母と共に変な宗教に肩入れし、今は年の離れた弟と二人で暮らしている。県内外の人間を被災地に案内したり、震災に関わる地元の人間の相談に乗るのが主な仕事だ。料理の出来ない新田は、弟のために近くのスナックで料理を作ってもらうが、そこに新しく入った女の子が東京の学生だという。市役所に勤めている新田に関心を持ち、震災をテーマに卒論を書きたいから色々と教えて欲しいと言われるが…。
というような話です。

個人的には、凄く好きな映画でした。ただ、ほとんどの描写で、結論は見ている者に想像させるような形を取るので、分かりやすい展開・物語を望んでいる人には向かない作品だと思います。

とにかく、この映画では説明も結論もほとんど描写されない。何故みゆきはデリヘル嬢として働いているのか、何故新田は東京の女子大生の質問に答えられないのか、みゆきの父親は働いていない現状をどう思っているのか―そういう説明は、ほとんどない。背景が予想出来るものもあれば、うまく想像出来ないものもある。とはいえいずれにしても、説明を出来る限り排除しているというのが、この映画の良さだと僕は感じる。

まだ6年、もう6年…人や状況によって色んな捉え方があるだろうが、放射能で汚染されてしまった土地で生きる現実に関して言えば、6年という期間はあまりにも短いと言うべきだろう。そこには、様々な問いが存在するし、その問いを発する様々な背景を持つ人が生きている。答えなど、当然一つに決まるはずもない。だからこそ福島に関して言えば、問い続けることに意味があるのだろうと僕は感じた。


それを強く感じた場面がある。老夫婦が新田の案内で墓地を見に行った時のことだ。「骨をここに移せるのか?」という問いに、新田は「汚染されているので移せない」と答えるしかなかった。

僕は、「骨をここに移せるのか?」という問いが存在するということをこの映画を観て初めて知った。骨が汚染されていて墓に移せない可能性など、考えたこともなかった。

映画の中で、そんな風に明確に言語化される問いもある。しかし、決してそれだけではない。この映画は、問いのカタマリだと僕は感じた。どんな問いが存在しうるのかを描写し、それを知ること―映画を撮る者、そして観る者に出来ることは、そういうことなのだと思う。

この映画においては、主人公の女性が絶妙だったと思う。たぶん今から書くことは良い表現の仕方ではないだろうが、この映画にとってはとても重要な点だと思ったので書きます。

主人公の女性は、場面場面で本当に印象が変わる。福島の市役所の職員として働いている時、あるいは仮設住宅にいる時は、本当に地味だ。こういう言い方は本当に失礼だと思うが、女性としてのオーラが全然ない。しかし、東京でデリヘル嬢として働くみゆきは一変する。福島にいるみゆきとは比べ物にならないほど、美しく可憐な女性だ。

美しさが際立つ女優には、同じような雰囲気は醸し出せないだろう。デリヘル嬢としては見栄えがするだろうが、地味な女性になりきろうとしてもなかなかうまくいかないだろうと思う。この映画の主役の女優は、そこが本当に絶妙だったと思う。地味なみゆきも、可憐なみゆきも、どちらもまったく違和感がなかった。見た目は別人のようだが、全体像としては繋がっている。この女優の醸し出す雰囲気は、この映画を成立させる上で非常に重要な要素だったと僕は感じた。

最後に一つ。今度は違和感の覚えた点について書こうと思う。

この映画では、「カメラマン」の存在が凄く意識された。手持ちのカメラで撮っているのだろう、画面が動かないシーンでも手ブレが凄かったし、渋谷の雑踏をみゆきが歩くシーンでは、後ろからカメラマンが歩いてついていってるなぁ、と感じさせるような撮り方だった。普段映画を観ていてそんなこと意識することがないので、最初は「カメラマン」の存在を意識させることに何か意味があるのか、とも思ったのだけど、たぶんそういうわけではないのだと思う。この点は、最後の最後まで不思議だった。撮り方的にはもの凄く違和感を覚えたので、そこはちょっと残念だった。

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