【映画】「私たちのハァハァ」感想・レビュー・解説

教室で、女子高生四人が撮影をしようとしている。カメラのレンズを取り忘れていて、しばらく真っ暗な画面のまま、声しか聞こえない。

「そんなわけで、行きまーす」

クリープハイプの大ファンである彼女たちは、ライブを見て感動し、「東京にも是非来てください」と言っていたのを真に受けることにして、東京を目指すことにした。
自転車で。
一之瀬が親と喧嘩したタイミングで、じゃあ今から行っちゃう?と決行することになった。知恵袋で聞いたら、北九州から東京まで行ったって人がコメントくれてた、案外余裕だったって。じゃー、行きましょうー。みたいなノリで。
自転車を漕ぎ、海岸でふざけ、公園で野宿し、旅の経過をツイッターにアップし、アホみたいな話をし、体力が尽き、金も尽き、それでもどうにかして東京を目指す。
クリープハイプのライブを観るために。
というような話です。

メチャクチャ面白かった。初めは、なんということはない作品だと思って見始めたんだけど、徐々に惹きこまれていきました。

これは、リアルと虚構の物語だ。

まず、撮影手法が、分かりやすくそのことを明確にする。
この映画は、四人の女子高生の誰かが常に持っている手持ちのカメラの映像と、四人を外側から撮るメインのカメラの映像とが混じりあう。
手持ちカメラの映像は、如実に”リアル”が意識される。彼女たちが旅の途中、ふざけながら撮っている映像で、彼女たち自身が旅の記録をするためのものでもある。僕には全編、セリフなんてほとんど用意されていない、その場のアドリブみたいなやり方で撮ったように見えたけど、手持ちカメラの映像はよりその印象を後押しする。本当に、そこら辺どこにでもいる女子高生が、行き当たりばったりではしゃいでいるような映像にしか見えない。監督の指示や、脚本に書かれたセリフなんかの存在を一切感じさせない映像は、強く”リアル”を思わせるのだ。
しかし一方で、四人の引きの映像も当然に存在する。そのシーンになると、なんとなく”リアル”から”虚構”にステージが移ったかのような印象になる。本当はどちらも虚構にすぎないのだけど、手持ちカメラとメインカメラの映像を切り替えることで、”リアル”と”虚構”が瞬時に入れ替わるような印象になる。それは、なんだかとても不思議な感覚だった。

また、女子高生とクリープハイプという取り合わせも、”リアル”と”虚構”の図式を持ち込む。女子高生らにとって、クリープハイプというのは、雲の上の存在、とまで言うと大げさかもしれないけど、とにかく向こう側の人だ。つまり”虚構”だ。彼女たちは、そんな”虚構”に向かって、旅を開始する。女子高生たちの馬鹿馬鹿しい旅の道中は、圧倒的に”リアル”で、だから僕には、彼女たちの旅の目的であるクリープハイプが、ずっと”虚構”に見えていたし、彼女たちにしてもそうだったはずだ。
しかし、東京に近づくに連れて、感覚が少しずつ変わっていく。実際に変わっていくのは四人の内の一人なのだけど、彼女の変化が如実になっていく。物理的な距離が縮まることで、まるで”リアル”と”虚構”の境目を飛び越えることが出来るかのような錯覚をもたらしたのだろう。その一人の少女の中で、クリープハイプが”虚構”から”リアル”に変わっていく過程も、おちゃらけた会話の中で巧く描かれていく。

『クリープハイプとうちら、全然違うってこと、わかってる?』

そう仲間に言われてしまうほど、彼女の中で”リアル”なクリープハイプが育ってしまうのだ。

先ほどの発言は、女子高生四人の仲間割れのシーンで飛び出す。”リアル”と”虚構”の裂け目は、ここにも顔を覗かせる。
女子高生四人は、基本的に「楽しい!!」だけで繋がっている。うちら、楽しいよね。最高だよね。パネェよね。そんな、前向きなノリで繋がっている。それが、彼女たちにとっての”リアル”だ。
しかし、綻びが表面化することによって、その”リアル”が”虚構”を内包していることに気付かされてしまう。「楽しい!」のレベルも、旅の目的も、人生に対するテンションも、やっぱりみんなそれぞれ違う。その違いを無視して”リアル”を共有しているつもりで、仲間になれたような気になっていた。でも、その違いが一度表面化すると、彼女たちをつなぎとめているものは別に何もないのだ、ということに気づいてしまう。だから、彼女たちの関係は、脆い。それは、非常に現代的な関係性を見事に描写しているように感じられて、新鮮だった。

彼女たちの人生の捉え方にも、”リアル”と”虚構”は顔を覗かせる。ある晩、公園で野宿している時のことだ。この旅の楽しさを噛み締め、やる気がみなぎっていると語る彼女たち。彼女たちにとって、唐突に始まったこの旅は、紛れも無く”リアル”なのだ。
しかし同時に彼女たちは、その先も分かっている。この”リアル”はずっとは続かない。クリープハイプのライブが終われば、また福岡に戻らなくちゃいけないし、学校や家族との今かで通りの生活が始まる。彼女たちは、その生活こそが”リアル”なのだと、口には出さないけどちゃんと分かっている。分かっていて、それでもなお、この”虚構”にまみれた旅を”リアル”だと思い込みたいのだ。

ツイッターやLINE、2ちゃんねるなどのモチーフが登場するのも、”リアル”と”虚構”の線引を強調する。もちろん、どれも現代的なモチーフであり、”リアル”と”虚構”がなんだなんてことが関係なくても、普通に採り入れられるものだろう。女子高生にとって身近なものだというだけのことである。しかし、これらネット上のツールを組み込むことで、旅を続ける彼女たちという”リアル”と、彼女たちの発信やその発信の拡散によって生み出される女子高生四人組という”虚構”が、時間の経過と共に徐々に乖離し始め、”虚構”が”リアル”を侵食する展開になる。

そして終盤。彼女たちはライブ会場にたどり着き、そして予想もしなかった展開が待ち受けている。それも、まさに”リアル”と”虚構”を明示する。同じステージ上に、”リアル”と”虚構”が存在する。どちらが”リアル”で、どちらが”虚構”なのか、もはやそれはさっぱり分からないくらいで、混沌としたままその瞬間の邂逅は終了する。

様々な形でこの映画は、”リアル”と”虚構”を行き来する。それが可能だったのは、撮影手法や、脚本があるように思えないやり取りもそうだが、何よりも、女優の知名度も大きいだろう。僕が無知なだけかもしれないけど、少なくとも僕は四人の女子高生役の誰一人として知らなかった。僕は映画を見始めてからしばらくの間は、もしかしたらこれはドキュメンタリーなんじゃないか、と思ったほどだ。あらゆる要素がうまく絡み合って、”リアル”と”虚構”の対立や融和を見事に演出している。

『これ切ったら、終わりになる気がして嫌じゃない?』

クリープハイプのライブ後、もう旅の記録をする必要がないのにカメラを回している一人がそう答える場面がある。こんな発言一つからも、”リアル”と”虚構”を感じさせる。彼女たちがこの旅を”リアル”だと感じているなら、カメラを切るかどうかで感じ方は変わらないだろう。彼女たちは、結局この旅を”虚構”だと思っている。だから、その”虚構”を成り立たせる小道具であるカメラを切ってしまったら、旅が終わってしまうように感じるのだ。

たぶんこの”リアル”と”虚構”という考え方は、今の若い世代に共通してしまいこまれている感覚なのだと思う。ネット上の自分はリアルなのか?学校にいる私は?家族の前の私は?自己表現の手段が多様化し、あらゆる”私”を様々な場所で生み出すことが出来るようになったからこそのこの感覚が、映画全体を支配しているように感じられた。

カメラで撮影するみたいに、あらゆる自分の感覚が、様々に創りだされた”私”を通して生み出されていく。もはや今の若い世代の人には、”私”が統一した存在じゃなきゃいけないなんて感覚も薄れているのかもしれない。彼女たちの旅路は、僕にそんなことを思わせた。

”リアル”と”虚構”の境界の存在を、一方では強調し、一方では曖昧にする。自身の感覚に従ってその調整を自在に行う少女たちの刹那の旅路が、映画という”虚構”を飛び越えてまるで”リアル”を現出させるかのような感覚をもたらすのが、新鮮な映画体験でした。

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