【映画】「ハドソン川の奇跡」

「正しさ」というのは、何で決まるのだろうか?

僕は読んでいないが、「空気の研究」という本がある。第二次世界大戦の開戦は空気によって決まったとする研究を発表した本で、様々な場面で引用される機会がある本だ。誰かが決断したのではなく、様々な人間の色々な思惑がブレンドされた上での空気が、第二次世界大戦を決した。それはつまり、「正しさ」は空気で決まる、ということだろう。

2016年、ベッキーの不倫騒動が大きく話題になった。個人的には、あの騒動後、僕はベッキーに対する好感度が上がったのだが、それは置いておこう。
その時の報道で不思議だったのは、もう一方の川谷絵音に対するバッシングが目立たなかったことだ。ほとんどが、ベッキーを叩くようなものだった。理屈は分かる。ベッキーの方がネームバリューもあり、清純なイメージだったというベースもあり、大きく取り上げられ、より酷く叩かれるのも分かる。しかしやはり、マスコミを通じて報道された真実かどうか分からないざっくりした情報から判断する限り、ベッキーよりも川谷絵音の方が悪いのではないか、と僕は感じる。結婚していたのは川谷絵音だったのだから。ベッキーが悪くないと言うつもりはないが、単純な比較で言えば、ベッキーよりも川谷絵音の方がより叩かれていなければおかしいだろう、と僕は感じていた。
これもまた、空気によって「正しさ」が決まった例ではないかと思う。

現代は様々な形で、様々なレベルの空気が容易に生み出される時代になった。流行や時代を作り出していたのがマスコミや雑誌などのマスメディアだった時代とは違って、現代は、ちょっとした個人のアイデアや考え方が、様々な形で広まっていく。個人でも、様々なレベルの空気を生み出すことが出来る時代になっている。

そういう時代にあって、「正しさ」というのはどんな意味を持つのだろうか?

ルールにがんじがらめにされ、ルールに則ったものだけが「正しい」と判断される世の中はもちろん窮屈だ。しかし、ルールが曖昧で、不安定な要素の相乗効果によって「正しさ」が決まる世の中もまた窮屈ではないかと思う。自分の言動の「正しさ」が何によって決まるのか分からないまま、「間違っている」と突きつけられる可能性に常に怯えながら生きていくのは、しんどいのではないかと思う。

人によって「正しさ」が違うことは当然だし、それを否定するつもりはまったくない。しかし、社会全体で、「こういうことを正しいと考えよう」という土壌を、もっと積み上げていかなければならないのではないか、と感じることもある。テレビではよく、「100%の安全」を求める声が流れる。しかし、「100%の安全」など存在しないということを、社会はもっと共有すべきだと僕は思う。しかしもちろん、そう考えない人もいて、議論は噛み合わない。


この映画を観て僕が感じたことは、「コンピュターシミュレーションをそこまで信頼するなら、飛行機をコンピュターに運転させろ」ということだ。飛行機の運転を100%機械にやらせることは、まだ出来ないはずだ。だから、人間が機長や副機長として乗っている。だったら、その人たちの判断はもっと尊重されるべきだろう、と強く感じた。

内容に入ろうと思います。
2009年1月15日、エアバスA320に機長として搭乗していたサリーは、ある決断をした。
ハドソン川に不時着する。
それは危険を伴う判断ではあったが、サリーには自信があった。そして、それ以外には選択肢は存在しなかった。サリーは、そう判断した。
その結果サリーは、乗客乗員155名全員の命を救った。
鳥の大群がエンジンに突っ込み両エンジン停止という危機的状況を見事回避し、サリーは英雄となった。
しかし。
NTSB(国家運輸安全委員会)が、サリーと副機長の判断を疑問視する。
ラガーディア空港に引き返すことは出来たのではないか?と。
サリー自身も当初、ラガーディア空港に引き返すことを考えていた。しかし、様々な状況判断から空港までもたないと判断。ハドソン川への不時着を決断した。
しかしNTSBは、サリーがハドソン川へ不時着したことで、乗客を危険に晒し、機体を水没させたと判断しているようだった。
コンピュターによるシミュレーションや様々な専門からの解析を待つ間、サリーは考える。
『40数年間、多くの乗客を運んできたというのに、わずか208秒の決断ですべてが判断される』
果たして真実はどこにあるのだろうか?

少しだけネタバレになるかもしれないが、書きたいことがあるので物語の展開を少しだけ書く。サリーはあるきっかけから、シミュレーションの不備を認識し、それを指摘することで自身の判断の正しさを示す、という流れになる。

しかし、僕は思うのだ。仮に、仮にシミュレーションが間違っておらず、彼らがラガーディア空港まで引き返せる状況であったとしても、それでも僕はサリーの決断が尊重されるべきだと考える。

何故か。
それは、副機長のこの言葉で表すことが出来る。
『ビデオゲームではない。生死の問題です』

映画を観ながら僕が考えていたのは、アポロ13号の帰還のエピソードだ。
宇宙空間で為す術もなく漂うかに思えたアポロ13号だったが、アポロンの内に残された電力と装備をすべてリストアップし、それらをどんな手順で使えば地球へ帰還できるのか、地上のシミュレーションで散々繰り返した結果、帰還できる方法が見つかり、彼らは地球に戻ってくることが出来た。これはシミュレーションの勝利である。

しかしこの話は、サリーのケースにはまったく当てはまらない。
アポロ13号のケースは、シミュレーションが先にあった。完璧なシミュレーションが先に用意され、乗組員たちはそれに従って行動すれば良かった。

しかしサリーたちは違う。シミュレーションの方が後なのだ。サリーは、この危機的状況を回避するためのすべての決断を、自分たちでする以外に方法はなかった。離陸直後の事故であり、高度は恐ろしく低かった。眼下には高層ビル群。サリーは、ハドソン川への不時着を成功させた後も、操縦していた機体がビル群に突っ込む映像が頭にこびりついて離れなかった。決断の時間は、ほとんどない。仮に、サリーが操縦していた機体がラガーディア空港に帰還できたのだとしても、まさに今その飛行機を操縦している機長自身が、様々な状況を加味してそれは無理だと判断したのだ。後からシミュレーションで、ラガーディア空港に帰還できたはずだ、などと言ってもなんの意味もない。

繰り返すが、この映画を観て、シミュレーションが云々言ってるなら飛行機を自動操縦にしてパイロットを乗せるな、と思った。概ね自動操縦が出来るのだとしても、不測の自体にはコンピュターは対応できないはずだ。だから人間が乗っている。それならば、人間の判断を尊重するべきだろう。NTSBの面々が何故それを理解できないのかと、映画を観ながらずっとイライラしていた。

今回はサリー自身が、シミュレーションの不備を指摘できたから良かった。しかしもし、サリーにその指摘が出来なければ、本当にサリーは自身が予測したように、パイロットを馘首になり年金ももらえないような立場になっていたかもしれない。そう考えると、本当に恐ろしい。

NTSBの立場も、分からないではない。映画の中ではそこまで詳細に描かれてはいないが、飛行機一機をダメにしたのだから保険の話が絡んでくる。保険会社は、機体を損傷させずに乗客を救う手立てが存在したとすれば、保険料を支払わないと主張するかもしれない。あるいは、サリーは通常の手順を無視して、自身の経験と勘に従って危機的状況下の操縦をした。そういう前例を追及もなく見逃してしまえば、今後も規律を乱すパイロットが現れるかもしれない。NTSBはそういう可能性を考えて、サリーを追及している。その立場を理解できないとは言わない。

しかし、映画の中で描かれるNTSBは、明らかにサリーと対立している。事故の状況を明らかにする、というのが最終目標であれば、サリーとの対立構造などなくてもその究明は出来たはずだ。そこに、僕は悪意を感じる。真相の究明よりも、サリーを貶める意図があったのではないかと勘ぐりたくなる振る舞いを、映画の中のNTSBはしていた。その点が、とても不快だった。

映画のエンドロールでは、本物のサリーと、当時救助された本物の乗客だと思われる人々の映像が流れていた。サリーの潔白が公に証明されて、本当に良かったと思う。英雄が正しく評価される世の中を、僕らは作らなければならないし、守らなければならない。

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