【映画】「恋する遊園地」感想・レビュー・解説

メチャクチャトリッキーな映画だったな。いや、面白かった!エッフェル塔と結婚した女性がいるという話は、トリビア的に耳にしたことはあるのだけど、その実話から、こんな奇想天外な話を作り出すとは。


僕が普段不思議に感じていることがある。それは、「理解できないこと」と「否定すること」が、何故セットになってしまうのか、ということだ。

もちろん、仕方ない状況はある。その「理解できないこと」が、特定の誰か/不特定の誰かや社会などに実害を与えるものであるなら、「否定すること」がセットになっても仕方ない(この「実害」の定義も難しいけど、まあ細かくは書かないことにしよう)。しかし世の中には、「理解できないこと」が特段実害をもたらすとは思えないような状況でも、そこに否定が生まれることがある。それは何故だろうか。放っておいても問題ないはずのことに、どうして否定という形で関わろうとするのだろうか。

世の中の風潮を見ていると、否定するというのは、分かりやすく自分のポジションを確保し、自分の立ち位置を優位にする行動としてよく使われているように思う。何か社会通念や理屈に合わない状況がある時、それを否定することで、自分自身の正しさを示したり、自ら否定して正そうとしたという勇敢さを示せる、と考えているのだろう。僕には幻想にしか思えないが、そう思っている人が、否定という形で、無関係の状況に無理やり首を突っ込んでくる。

僕は、仮にその否定が正しかったとしても、否定をしている本人に実害がないなら、黙ってろよ、とよく思う。

確かに、遊園地のアトラクションに恋をするというのは、変だと思う。しかし、変だからと言って否定されなければならない理由はない。「アトラクションに恋をすること」を受け入れることが出来なくても、否定せずに放っておくことは誰にだってできる。世界中の人がそんな風に振る舞えれば、ほとんどの争いは無くなりそうな気がするんだけどなぁと、映画を見ながら感じた。

内容に入ろうと思います。
ジャンヌは、子供の頃から近くのテーマパークに通っていて、大きくなった彼女はそのテーマパークの夜間スタッフとして勤務することに決める。初日、ロッカールームで着替えていると、マネージャーのマルクが入ってきた。マルクは陽気な男で、新人のジャンヌとコミュニケーションを取ろうとするが、生来の人見知り(というわけではないのだけど)のため、ジャンヌはうまく会話が出来ない。ジャンヌは日々部屋に籠もって、これまで通い続けてきたアトラクションのミニチュア制作に没頭しており、去年新たに導入された「ムーブ・イット」という回転するアトラクションに「ジャンボ」という名前をつけて愛でていた。ある日、何故か家にやってきたマルクと話している時、「物に心が動いたことがあるか?」と質問するジャンヌ。マルクは「ない」と答えるが、続けて、母親が口にしていたというとある詩をジャンヌに教える。
【命なき者よ お前にも魂があり 僕らに愛を求めるのか?】
ある夜、「ジャンボ」の近くにいると、誰も操作していないのに勝手に明かりがつき、動き始めた。ジャンヌは、「NOなら赤く光って、YESなら緑に光って」とジャンボに伝え、その夜から二人の「逢瀬」が始まることになるのだが…。
という話です。

なかなかぶっ飛んだ設定でしたけど、「人間に愛着を抱けず、遊園地のアトラクションに恋をする女性」という設定が特殊なだけで、ジャンボのような境遇にいる人というのは、世の中にたくさんいるんだろうと思います。

世の中はどうしても、多数派の意見で出来上がっていきます。それは当然だし、仕方ないことだと思います。しかし、僕が承服できないのは、多数派というのは、ただたくさんの人が支持をしているというだけの話であって、多数派だから正しいという理屈は成り立たない、ということです。世の中の様々な場面で、多数決やその類似のルールなどが多々存在します。それは、あくまでも、世の中を合理的に動かすための約束事に過ぎないと僕は考えています。しかし世の中には、多数派だから正しいという論理を、恥ずかしげもなく振りかざす人っているなぁと常々感じています。

多数派=正しいという理屈が間違っていることを示すのは割と簡単です。例えば戦争中は、「人を殺すことが多数派」になります。戦争というのはかなり政治的な判断なので、政治家だって民衆から支持されないと判断すれば戦争に踏み切らないでしょう。つまり、戦争が起こったということは、民衆の多数派が支持した(あるいは、支持するだろうと国のトップが判断した)ということです。しかし、「人を殺すことが正しい」とはなかなか言えないでしょう。つまり、多数派の判断であっても正しくないことはあるのです。

それは時代が間違っていたのだ、という反論もあるでしょう。しかしじゃあ、今僕たちが生きている時代が、100年後の未来人に「間違っている」と判断されないという保証は、誰がしてくれるんでしょう?それがどんな時代であれ、その時代に生きている人間には、その時代が正しいか間違っているかを判断することなど出来ません。時代が間違っていれば間違った判断をしても仕方ないと考えるのであれば、今僕らが間違った判断をしている可能性についても思い巡らせる必要があるでしょう。

実際に僕たちは、環境を悪化させ、格差を拡大させるような時代に生きています。100年後の未来人から「あの時代はマジでクソ最悪だった」と判断される可能性は十分にあるでしょう。ということは、そんな時代に生きる僕らの時代の多数派も間違っている可能性は十分にある、ということです。

アトラクションに恋をするというのはあまりに特殊すぎて、僕らの日常の世界に置き換えて考えにくいかもしれないけど、ジャンヌのように、多数派ではないというだけの理由で、誰にも実害を与えていないのに非難されるのはおかしいなぁ、と思います(一応書いておくと、こういう時に、「女性は結婚して子供を生むべきで、アトラクションに恋をする女性はそれをしないから、社会に実害を成している」とか言う人間はクソだな、と僕は思います)。僕はむしろ、多数派になれない自分を無理やり押し隠すのではなく自分を貫き通していく姿は、カッコイイなぁ、と思います。

【自分でもどうしようもないの。一緒にいると幸せになれるの。気がついたらこうなってた】

こういう切実さを、少なくとも僕はきちんと掬い取れる人間でありたいなぁ、と思う。

この映画では、ジャンヌの母親が典型的な恋多き女という感じで、ジャンヌと正反対の存在として描かれます。そのことも、対立構造を煽る形になっています。限りなく登場人物が少ない物語の中で、ジャンヌに味方する存在がいるんですけど、僕はその人みたいに振る舞いたいなと思いました。

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