【映画】「ニュースの真実」感想・レビュー・解説

真実を追おうとする者は好きだし、応援したくなる。
些末な揚げ足取りをしようとする者は、嫌いだ。

東京オリンピックのエンブレム問題を思い出した。
僕はあの件に関して、自分なりの意見はない。盗作疑惑については、判断できないというのが僕の立ち位置だ。
その上で、僕は、主にネット上で大騒ぎしていた人たちのことは、どうにも好きになれないなと感じる。

僕は、あまりネットを見なくなってしまったので、エンブレム問題の時にネット上でどんな騒ぎになっていたのかは、マスコミの報道を通じて知ったに過ぎない。だから、僕の中にあるイメージは恐らく偏ったものだろう。しかし、エンブレム問題に限らず、世の中で何かが起こると、ネット上で常に似たような動きが起こり、僕はそういう動き全般に通ずる核心部分に嫌悪感を抱く。その説明をするために、エンブレム問題を代表的に取り上げてみようと思う。

エンブレム問題というのは、「盗作だったのか否か」に焦点が当てられていた。これ自体は問題なかっただろう。
しかし問題は、それをどう判断するかという判断基準にあったはずだ、と僕は思う。

ネット上の人たちは、「見た目」だけで似ているかどうかを議論していた。僕にはそんなイメージがある(もちろん、そうではない、専門的な知識を持った人の意見もあっただろうが)。並べてみて、似ている、似ていない、ということを延々とやり合っていたはずだ。

もちろん、「見た目が似ている」というのは一つの判断基準だろう。しかし、あくまでもそれは、一つの判断基準に過ぎない、と僕には感じられる。他にも、デザインの類似を判断する基準は様々にあるはずだろう。

「別冊カドカワ 乃木坂46総力特集 Vol.1」という本を読んだことがある。その中に、乃木坂46のCDジャケットのタイポグラフィについて組まれている特集があり、その中にこんな言葉があった。


『デザインにおいて、「ただなんとなく」は絶対に成立しません。少なくともデザインした人はあらゆることを考えているし、クライアントに理由をプレゼンしているはずですから』

つまり、どんなデザインであっても、言葉で説明可能な理屈がある、ということだ。

これだって、デザインの類似を判断する基準の一つになるだろう。エンブレム問題の時は、発注元が国であり、デザイナーと国が繋がっていた可能性がある、みたいなニュアンスの報道もあったように思うから、あのデザイナーがデザインしたエンブレムに言葉で説明可能な理屈が確実に存在したかと言われれば難しいが、しかし職業的にずっとデザイナーとしてやってきた人であれば、デザインに言葉で理屈を与える、というのはある意味で習慣になっているのではないか、とも思える。

デザインに内包された理屈は、相応の知識がなければ扱えない。ネット上の人たちは、自分たちに分かる「見た目」だけを論じ、それ以外の判断基準を無視していたように感じられる。
そしてそれは僕には、真実を追う者として正しい姿勢ではないように感じられる。

もちろん、ネット上で騒いでいた人の中には、暇つぶしに、あるいは面白がってこの論争に加わった者もいるだろう。そういう人には、「真実を追う者である」という意識はないだろう。ただ、そういう人のことはここでは論じていない。あくまでも、自分は真実を追っているのだ、という意識でネット上の論争に参戦した人たちのことについて書いているつもりだ。

真実を追うのではあれば、その状況を細部まで理解し、証拠を揃え、確実に裏を取る、というような覚悟がなければ難しいだろう。個人には完璧にやるのは無理だとはいえ、そういう意識を持っていなければ真実を追う資格はないのではないかと思う。


この映画は、真実を追う過程でミスを犯した者たちの物語だ。しかし彼らは、確かにミスは犯したが、真実を追う者であることには間違いなかった。現代には、真実を追う者であるという土俵に上がることすら出来ていない人が、さも真実を追っているかのように振る舞っている状況が多いように感じられる。僕は、その状況は好きではない。ミスは誰にでもあるし、組織力がなければ不可能なことはある。しかし、どんな状況であれ、真実を追う者としての資格をきちんと持った上で他者を糾弾しなければならないと僕は思うのだ。

2004年。「60ミニッツ」という調査報道番組は、あるスクープを世に放った。大統領選挙真っ最中であるジョージ・W・ブッシュに、ベトナム戦争の兵役逃れの疑惑がある、と報じたのだ。取材を主導したのは、「60ミニッツ」のアンカーであるダン・ラザーの盟友であるメアリー・メイプスだ。
スクープの端緒を開いたのは、一枚の書類だった。それはコピーではあったが、当時の大佐が、ブッシュ氏が軍内に不在であり適切な評価が出来ないと記したメモだった。そのメモの筆跡を鑑定し、当時の将軍に裏取りをし、当時のブッシュ氏の周辺情報を様々に洗って矛盾しないことを確認し、ブッシュをテキサス空軍州兵に入れてやったという証言を押さえた。情報源から、コピーの入手先は明かせないと言われていたので、オリジナルの鑑定は不可能だったが、メアリーは確信を持ってそのスクープをダンに報じさせた。
しかし報道直後、スクープの端緒を開いた書類が偽造であるという疑いが浮上した。追い詰められるメアリー。再調査の過程で驚くべきことが明らかになり…。
というような、実話を元にした物語です。

この映画を、取材でミスした者たちの物語、と捉えることは簡単だ。しかし僕は、この映画が伝えたいことはそんなみみっちいことではない、と感じた。

最初の報道後、「書類が偽造ではないか」という疑惑が浮上したことで、以後焦点は、「あの書類は本物であるか偽造であるか」というところに移った。書類の信憑性について様々な報道がなされ、メアリーの側も傍証を積み上げていくことになる。

しかし、この問題の核心はそこにはない。核心は、「ジョージ・W・ブッシュが兵役逃れをしたか否か」である。しかしその焦点は、書類の真偽が話題になるにつれてぼやけていく。

メアリーは、その書類以外にも、核心的な証拠ではないにせよ、様々な傍証を積み上げている。確かに、その書類が一番大きな証拠ではあるが、メアリーの感触からすれば、たとえその書類が偽造であったとしても、ブッシュ氏が兵役逃れをした可能性は高い、と考えていたし、追加取材をしたいと考えていた。

しかし、世間や会社はそう考えなかった。映画ではそこまで描かれていないので、これはあくまでも予想だが、世間は、書類が偽造ならブッシュ氏の兵役逃れはないも等しい、と捉えようとしたのだと思う。そうでなければ、メアリーがあそこまで追い詰められることはなかったはずだ。会社は、世間のそんな反応を見て、会社が最小限のダメージで済むように幕引きを図ろうとする。会社としても、ブッシュが兵役逃れをしたかどうかよりも、書類の偽造に関して会社側に非がないことを示すことが大事なのだ。


会社を責めることはなかなか難しい。冒頭で書いたように、世間にいる個人が強い影響力を持つようになってしまった世の中にあって、それまで以上に世間の反応に敏感にならざるを得なくなっている。良いことだとは思わないが、仕方ないと思わなくもない。

あくまでも僕は、世間を問題にしたい。何かを、あるいは誰かを糾弾するのであれば、自らも真実を追う者としての資格を持たなければならないと僕は思う。この映画の場合で言えば、「書類の真偽」も重要だが、それ以上に「ブッシュ氏の疑惑」こそが重要なはずだ。世間という大きな流れが、そこに目を向けることが出来なかった、あるいは意識的に目を向けなかったことが、僕には一番悪いことに思える。

相互に検証し合う環境は理想的だ。現代は、個人もインターネットを通じて発言力や調査力を持つことが出来、マスメディアとは違う形で世の中をチェックすることが出来る時代だ。しかし、マスメディアが有している、真実を追う際の要求レベルの高さを実現しようとする個人は多くないはずだ。マスメディアにはマスメディアに出来ることが、個人には個人に出来ることがあり、両者がうまく組み合わさればいい流れが生まれるだろう。しかし、多くの場合、その両者はお互いの良さを打ち消し合うように働いているように見えてしまう。それは、とてももったいない。

この映画の中で、マスメディアが調査報道をやる限界が語られる場面がある。少なくともテレビは、お金の掛かる調査報道がなかなかやりにくくなっているはずだ。マスメディアが調査報道から手を引き、その一方で益々個人の力が高まれば、一層バランスが悪くなってしまう、と僕は思う。

そういう現代のあり方に警鐘を鳴らす。この映画には、そういうメッセージが込められているように、僕には感じられる。

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